……アラデル、盗み聞きはよくないぞ。お父さんの言う通りにしなさい。
人目のつかぬ暗い隅で他者の死を企てようとするのは、下賤な連中のやることだ。
それでしばらくはいい思いができるかもしれんが、盗み取ってきた勝利みたいなものがそう長く続くことはないのさ。

(そうよ……こいつらは下賤な連中だわ……)

(お父様……)
アラデルは捕まりたくはなかった、特にこの悪巧みを働こうとする者たちに。さすれば父を失望させ、カンバーランド家の名に泥を塗りかねない。
そこで彼女は窓からの脱出を試みた……

我々も急がねばな。

軍が下で頭数を数えている。今のうちに戻って紛れ込めばバレはしない。
(物音)

……おい、何か聞こえたか?

ただの小動物だろ、考え過ぎだ。こんな狭い部屋に人が隠れているはずがないだろ?

ふぅ……
アラデルは細心の注意を払いながら影に縮こまっている。彼女の忠実なる友――巨大な蒸気鎧が彼女を匿ってくれているのだ。
ようやく窓の枠にも触れられた。このまま窓から出れば、二人の視線を避けながら水道管に沿って脱出することができる。
スカートもすでに汚れきってしまった、きっとエルシーに知られればカンカンだろう。
だがそれを気にして捕まってしまえば元も子もない……

ヒッ!
アラデルは自分の身に何が起こったのか理解しきれなかった。
天地が彼女の目の前で真っ逆さまになったのだ。眩暈が激しく、手足も力が出ない。足を踏み外してしまったアラデルは、そのまま二階から落っこちてしまったのだ。
庭園の景色が猛然とアラデルの顔面へと迫ってくる。しかし彼女が固い地面に衝突することはなく、代わりに分厚くふかふかとしたマットのようなものが受け止めてくれた。
(何かの上に落ちる)
マット?なぜこんなところにマットが?
違う、これはマットじゃない。
思考を巡らせながらも、アラデルは優しく地上へ置かれたことを察知した。
そして振り返り、後ろを見やれば――
伝説や伝承にしか存在しえない生き物が、彼女の目の前に佇んでいたのだ。
(ライオンの鳴き声)
その者たちはまるで神話からそのまま現れたかのように、威風堂々と庭園の中に存在している。
金色に靡く鬣はまるで太陽の如く輝き、真ん中に立つ長と思わしきその者は、その深い褐色の瞳を静かにアラデルへ向けていた。
アラデルは以前、父に連れられて幾度も国王陛下に謁見を賜ったことがあり、その際宮殿の壁に掲げられていた歴代アスラン王の肖像画を目にしたことがある。
しかしこれは初めてだ。かような眼力で直視されては堪らず首が垂れさがってしまう――この者たちの目はどの王よりも威厳に満ち溢れていたからだ。
だが、カンバーランドが容易く首を垂れることはない。顎を高く上げて、相手に圧倒されないようにと踏ん張っていたアラデル。ふと、この者たちの真ん中に人ひとりが跨っていることに気が付く。
その人はアラデルよりも幼い子供だった。しかし高貴な礼服を着こなし、ぐったりと金箔が貼られたような背中に座している。
そんな幼子を乗せている者は、とある剣を咥えていた……その幼子よりもはるかに巨大な剣を。
そこへふと、とても重厚で低い声がアラデルの脳内で響いた。
「アラデル・カンバーランド。」
「いつの日か、再びヴィーナと相まみえるだろう。」
それからこの者たちを、アラデルが見ることは二度となかった。
その後の二十年もの間、彼女はよくこの一幕を夢に見る。あの黄金に見える威厳溢れる者たちと、その者たちと共にいた幼き女の子を――
だがその獣の主が予言したように、彼女はやがてそのヴィーナと名が付く者と再び相まみえるのであった。

見て!あ、あれは……

アレクサンドリナ王女殿下だ!

はやく陛下へお伝えしろ、王女殿下を見つけたと!今そこの庭園に――

待って、見間違いじゃないわよね?あれって……盗まれたはずの……

殿下が、アレクサンドリナ王女殿下が――諸王の息吹を所持しておられるぞ!

ヴィクトリア万歳!

国王陛下万歳!
(大歓声)
歓声が瞬く間に庭園の中で炸裂した。
軍人も、貴族も、はたまた従者も……みなが庭園へと押し寄せ、王権の象徴を抱える王女殿下を見守る。
なんたる奇跡か!
そう思って目頭を熱くした人々は、こぞって熱烈な拍手を送り届ける。
(大きな拍手の音)

アラデルお嬢様!?どうしてここに!?
(エルシーがアラデルに近寄ってくる)

……エルシー。

あなた、あの者たちが見えないの?

あの者たちとは、何を指しておられるのです?王女殿下のことでしょうか?

王女殿下ならずっとお一人でしてよ?

違うの。あの者たちがいたのよ、黄金色の……

さっきだってわたしに話しかけてくれたわ。

それよりもどうされたんです?スカートをこんなに汚してしまって……何かあったのですか?

……よく分かんない。

お星さま……お星さまが上の部屋に落っこちてきたんだわ。

蒸気騎士が……甲冑が……あの悪者たちを倒すのよ!

一体何を仰っているのですか?

わたし……頭がクラクラするわ、エルシー。

きっとお疲れになったのでしょう。あの情景を見てくださいな、眩暈を起こさない者などいるはずもございません。今日はあまりにも出来事が多すぎたんですから。

ご覧になった?アレクサンドリナ王女殿下が諸王の息吹を抱えながら戻ってこられましたわよ!

窓も壁もヒビが入ってしまいそうなほどの歓声だな。きっと誰もが自分の目を疑っているはずだ、なんせあのアレクサンドリナ王女殿下だからな――まだお歳はいくつだね?

“奇跡だわ”、みんなそう言ってる。

ああ奇跡さ、当然奇跡だとも。

奇跡と偶然の最大の違いは、謂われもなく降りてくるかどうかにある。

陛下の生誕日もいよいよ間近だ……これを啓示と扱わずしてなんと扱おうか。

まあまあ。たとえ自作自演の芝居だったとしても、楽しめたものじゃないですの。

はぁ、しかしまた思い出してしまいましたわ。一部の公爵たちはなぜ今の陛下とカンバーランドをあのように……

そう思い悩みなさんな。それは一旦置いておこう、すぐにパーティが始まる。

そうですわね、今は目の前で起こってる出来事を楽しもうじゃありませんの――

ヴィクトリア万歳!

……どうやらみな、アレクサンドリナの旅路に気付いてしまったようだな。

陛下……まさか最初から殿下が地下へ向かわれたことをご存じだったのですか?

これはまたとない機会だ。私が宮殿内にいなければ、衛兵たちも少しは雑談やうたた寝をしてはサボりに出る。そうすれば私の可愛い侵入者がバレることもない。

なるほど、すべては陛下の思し召しだったのですな。

半分はあの方の策ではあるがね。たまに人前でささいなジョークを飛ばそうとする、そういう性格の持ち主だ。

彼もが協力してくださったとなれば、彼自身も“やらねばならないこと”だと自認しておいででしょうな。

……ロンディニウムもそろそろ夏に入る頃だろう。最近はやたらと雨も多く、何より蒸し暑い。君もアラデルと夫人を市外へ送り出そうとしているようじゃないか?

ここで断っておきますが、断じて他意はございません。ただ……

ロバート、君が自分の娘を愛しているのは分かっている、私も同じだ。

あの子たちはヴィクトリアの未来だ。であれば、今のヴィクトリアに我々のすべてを賭けてみようじゃないか。万が一失敗した際は……

何を仰いますか、陛下。そのような恐ろしいことなど、我が命を以てして必ずや阻止してみせますぞ。

もちろんだ、私もこの先の未来には勇気と自信に満ち溢れていると信じているよ。しかしだ、だとしてもアレクサンドリナのために退路を敷いてやれねばならん。

あの子はいずれヴィクトリアの王になる。今から自分の都市をつぶさに知ってもらったほうがいいだろう、善は急げというものさ。

それに、重苦しい午後の時間にああいった催し物があったほうが気持ちもいくらかは晴れるだろ?

私たちも少しはストレスを発散しないとな。そのためにここへ集まったんじゃないか。

……

ただまあ……予感はするよ。これからすることもそのためなのだろう?

……

では私たちもそろそろ下へ降りるとするか、ロバート。まずはこの茶を飲み干さんとな。

なんだか音楽が聞こえてきたわ。あれはお父様が陛下のために招いた楽団?

そうですよお嬢様。そろそろパーティのお時間になります。

みんな楽しそうにしてるわね。

お嬢様は楽しくないのですか?

ずっと続いてほしいわね……今が。エルシー、続くわよね?

あなたも、お父様もお母様も……ずっと傍にいてくれる?

私ではお答えできかねます、お嬢様……ただ、この世に不変というものはございません、庭園に咲く花と同じように。

……

いいえ、エルシー、変わらないものだってあるわ!

たとえばこのわたし!わたしは必ず大きくなったら蒸気騎士になる、あのリッチ様のように!いいえ、リッチ様をも超えてみせるわ!

わたしがあなたたちを守って、悪者たちを追い返してあげる!

ひいひいひいひいお婆様と同じように、カンバーランドの名を永遠のものにしてあげるんだから!

約束よエルシー、絶対なってあげるからね!

お嬢様……

……だからずっとわたしの傍にいること!わたしも絶対、ロンディニウムから離れないから!

お父様にだって伝えてやるわ――

わたしのホームはここだって!歴代のカンバーランド卿がそうしたように、わたしが家を引き継ぎ、命尽きるまで守り抜いてやるんだって!

必ずよ、天に誓って!