ジャリ。
街中に分厚い礫土が積もる。
南地区にある大多数の区域は天災の影響を受けることはなかったが、嵐が最も猛威を振るっていた際、砂は暴雨のように激しく玉門へ吹き付けられていたため、都市で太陽を拝められる場所はどこにも存在し得なかった。
ジャリ。
門を閉めていたはずの鍵もとっくのとうに壊されている。
横に倒れた鍛造炉、バラバラになってしまった武器棚、割れてしまったレンガに瓦。中庭は辺り一面、好き放題荒らされていた。
ここにいた主人も、もはや帰ってきて庭を掃除してくれるはずがないというのに。
それでもあの老いたエンジュの木は、今も中庭に佇んでいた。
(ズオ・ラウとジエユンが姿を現す)
宗帥。
わざわざ鋳剣坊までお越しいただきありがとうございます。
剣はすでに取り返しました。ただこちらの方が、どうしても自分から返してやりたいと譲らないものでして。
ここであなたと、話したいことがあるから。
ああ、構わないさ。
それにしても、ここへ入ったのはもう十数年ぶりになる。
同じ都市に居合わせているというのに、ここへ“帰る”ことになるとはな。
モンさんのことは、本当に残念に思います……
それ以上は結構だ。
都市全体を危機に陥れたことは、疑いの余地もない大きな過ちである。彼がそれをしでかしたのであれば、償いも必要だ。きっと本人も、最初から察していたことだろう。
……
しかし先日、玉門の志士らを無闇に捕らえては連行してしまったボクの行動は、あまりにも軽率そのものでした。
今回の一連の事件が収まった後、速やかに父上のところへ出頭して処罰を受けようと思いっている次第であります。
鋳剣坊で発生した損害は、すべて賠償した上で復元いたしましょう。すべてボクが責任を負います。
平祟侯は公正無私なお方だ、きっと志士らには妥当な処遇を出してくれることだろう。
だが……
突発的な事態だったとはいえ、誤解は免れん。一時的な衝動で事に及んでしまい、それで自らの程度というものを損なってしまったかどうかは、自分自身で考慮しておくことだ。
……
肝に銘じておきます。
――うむ。
では、話変わって。宗帥もきっと重々承知していると思いますが、大炎にとって山海衆とは、巨獣以上に警戒しなければならない存在です。
確かに巨獣は恐ろしい。しかし千年前、我々はあの巻き狩りで奴らに打ち勝ったのです。おまけに現有の国力を用いれば、もはや奴らなど恐るるに足りません。
時代は変わった、そこは疑いようもない。
だからこそ真に恐れるべきなのは、人々の心に根差している、あの混沌の世から落とされた陰影のほうです。
天地も、星月も、風雨も、なんなら時候でさえも……これらはすべては人智を超えた、この世の無常に逆らうものたちです。
我々人類からすれば、それは巨獣にも同じことが言えます。
無知は恐怖を生み出し、その恐怖は捻じ曲がって人々の信仰へと変化する。ああいった狂ってしまった人たちからすれば……むしろ我々こそがこの地における異端、ないし“裏切者”なのでしょう。
信仰も、言うなればさらに深まった執念みたいなものだからな。
巨獣は大炎の疆土から姿を消しましたが、山海衆らは一向にその活動を止める気配を見せません。
さらに厄介なことに、ここ百年近く、流賊や水賊、巨大な盗賊組織……あるいは亡命した者たちが、こぞって山海衆に吸収されてきました。“巨獣”はもはや奴にとっての隠れ蓑みたいなものです。
司歳台が記してきた記録からも分かるように、山海衆が“巨獣”の名のもとに引き起こしてきた事件は、今ではもう数えきれないほどの規模となってきました。
その数は非常に多く、一つ一つが広範囲に渡って複雑に絡み合っているため、すべてを一掃するのは困難を極めます。奴らの行いは劣悪と称するよりも、不気味と言ったほうが正しいでしょう。
近頃も、向こうは代理者たちと接触を図るようになってきています。ただ司歳台が早急に対処したため、幸い事なきを得ましたが。
私のあの弟と妹たちなら、皆おそらくそういった“信徒”らと接触を図るつもりはないはずだ。
しかし、現に歳が再び目覚めようとし、玉門が帰国の途についている最中、山海衆らがここで事件を勃発させたのも事実。諸々複雑に絡み合ってはいますが、そのすべてが偶然の一言で片付けれるはずもないでしょう。
つまりそれは……
あの大罪人は天下を棋盤として見なしている以上、山海衆が奴の駒として動いている可能性は非常に大きいかと。
仮に司歳台がそのような結論を出したとなれば、重大な懸念になるな。
……
それか、山海衆はすでに歳とある種の関係性を構築しているのではないかと。
……
つまり、司歳台の見立てによれば、これは大炎が直面するであろう最も深刻な巨獣問題になるということか。
はい、その通りです。
剣を追い、犯人を突き止め、山海衆らを殲滅する……お前は司歳台で一番若い持燭人にして、あの平祟侯の子でもある。にも関わらず、今回の事件の中で一番重い責務を担うつもりでいるのだな。
はい。
乱局に身を置き、生死の決断を、雷霆の如き手腕で捌き斬っていく。
踏み間違えてしまった些細な過ちは担えても、そこから広がるであろう重大な悪果を引き起こすわけにはいかない。
過ちを冒してでも、断じて見逃すわけにはいかない。
そう考えているのか?
……仰る通りです。
少しは若かりし頃の左宣遼の気迫が垣間見えるが、しかし……
ズオ・シュエンリャンが三日以内に三つの任務を完遂しろとお前に命令を与えた時、その最後に付け足された言葉を、どうやらお前は忘れてしまっているようだ。
……
情報を漏らすことなく、一般市民らを巻き込まないように心してかかれ。
朝廷が専ら司歳台を設け、全力で巨獣問題を取りかかっているその最終目的はなんだと考える?
いずれ起こるかもしれない一城の存亡を賭けてまで、玉門が遠路はるばる帰国の途についているのは、またなんのためなのか?
……
それはすべて今この時、この街に住んでいる住民らのため、お前が軍営に連行されていった人たちのためであるのだ。
……しかし、これもすべては天下のためです。
任務を遂行する際に、努々当初の志を忘れるな。
お前はもしかすれば何も間違ってはいないのかもしれないが、状況にその身を置いている以上、お前の決断は命を殺める武器にもなり得る。一瞬の判断で過ちを犯せば、後悔しても遅い。
今話したこれらは、わざわざ私が言葉にして伝えることでもなかったはずだ。
……
ご指摘、誠に感謝いたします。
天災はまだ完全には収束してはいない、お前もはやく手伝いに行ってやれ。
(ズオ・ラウが走り去る)
かしら、はやく、こっちです!
ここの路地は通りから外れてる上、道も狭い。おまけに巡防営の捜索ルートからすれば盲点になってる場所だから、しばらくは完全ですぜ。
今のうちに態勢を整えよう……残りはこれだけか?
へい、みんなそこの大通りでやられちまいました。
玉門の防衛軍も、動きが予想よりもはるかに早かったです。こんな短時間にも関わらず、天災の防御工程が稼働してる箇所と関所となる関門を全部塞いじまったとは……
それに、急にどっからか鏢客に武術家も出てきやがりまして。※来歴不明のスラング※、連中マジで手強いですぜ。
斥候に出していた諦獣らは?
一匹も戻ってきやせんでした。
ほかの分隊の仲間たちもやられちまったと思います、もし防衛軍に捉えられてしまったら……
フンッ、所詮は火事場泥棒を働こうとするだけの烏合の衆だ。もとから我々の尻尾を掴ませないために募った者たちに過ぎん、最初から期待はしていないさ。
ともかく任務ならすでに達成した、我々も撤退するぞ。天災ももうじき晴れてしまう、防衛軍がこちらへ目を向け始めてからでは遅いぞ。
そうだ、かしら……そういえば門主様は?
作戦が始まってから、まったくお姿が見えていないっすけど?
門主様なら……
君は……
あなたの剣を盗んでしまったから、ここで返す。
返してくれるのなら、借りたことになるな。
その前にいくつか聞きたいことがある。返すのは答えてくれてからだよ。
力づくで奪おうだなんて考えないでよね。あなたの実力は知ってるし、私じゃ絶対に敵わないから。
……
分かった、なんなりと聞いてくれ。
全然焦っていないように見えるんだけど、剣のことは気にならないの?
片時も肌身から離してはならない、私にとっての“宝物”みたいなものだ。
気にならないわけにもいかんさ。
……
気にしてるなら気にしてるって言えばいいし、気にならないのならハッキリ気にならないって言えばいいのに。
やっぱり師匠の言ってた通りだ。あなたってば、ホント回りくどい話し方をするんだね。そういうところだよ。
それを言った師匠というのは……
剣の名前、“重岳”って言うの?
……
いいや、“朔(シュオ)”だ。
チョンユエは私の名前だ。
……
師匠、よくこの剣のことを話していたんだ。
でも、きっとこの剣だけに会いたかったわけじゃなかったんだろうね。
……
ここ二日、私ずっと考えていたんだけどさ。ここが、師匠の“家”なの?
師匠は私たちに武術を教え、そして移動都市から持ってきた知識を授けてくれた。
もっと頑丈な構造をした家屋を建てれば、砂や風を凌ぐことができるって。大地の脈動に耳を当てれば、痩せ細った荒野でも穀物を育てることができるし、水源を探し当てることができるって。
そして師匠が話していたこの移動都市は、とてもデカくて頑丈そのものだったよ。そこに住まう人々が一緒になって、すべてを呑み込もうとする天災に立ちはだかる姿も見た。
人は、家と呼べる場所を持つべきだ。
もしその家に留まれば、私たちは災害を恐れることもなく、季節を追いかける必要もなくなるのだから。
だからこそ分からないんだ。どうして二十年前、師匠はここを出て行ったの?
……
男は答えなかった。
彼女は重い病に侵されていたはずだ。にも関わらず、君たちに武術を教えてやっていたのか?
アナサはみんな素質がいいからね。でも、家を持ったからには、その家を守る力をつけなければならないって、師匠が言ってた。
私たち、結構習得ははやかったんだよ。グズだったとしても、師匠は毎回自分で模範を見せてくれたんだ。あんな身体が弱まってしまったにも関わらず。
だから私たち一族は、何度も師匠を荒野から連れて行って病気を診てあげなきゃって考えていたんだ。
でも師匠、“長生きして、身体を痛めつけただけでも苦しいだけだ。それならいっそのこと、あなたたちに教えた烈刀子の酒が今年どこまででき上っているかを見てみようじゃないか”って。
ねえあなた、当時医者は全然見つからなかったの?
……
男は首を振った。
隠者を尋ねても、遇うことは叶わなかった。それからも探し回ろうとしたのだが、玉門から緊急連絡が入ってしまったんだ。
“山海衆が市内に潜入して秩序を乱そうとしている、至急帰還されたし。”
つまり、師匠がここから出て行かなくても、病気は治せなかったってことか。
……そうだ。
師匠が言ってた。生まれも死も、誰もが必ず経験することだって。
すぐに亡くなったり、長く生きてこれた場合もあるけど、そこに違いはない。
本当に違いがあるところというのは、その生死の間にある、決して抗えぬ“老いてしまう”ところと、それ以上に残酷な“病んでしまう”ところだ。
それをいくら目に見えたところで、手を加えられるわけではない。いちいち気にしたところでも、徒に悩みを増やしていくだけだって。
それで師匠がもうダメだって時に、烈刀子がちょうどでき上ったから、みんなで一緒に飲み干したんだ。それからみんなで一緒に、名前のない歌を歌った。
本当はアナサが死んでいった一族を送るために、魂の安息を願った古い歌なんだけどね。でも師匠が、私を送る歌なら、死んだ後に歌われても意味はないだろうって。
“だから、私がまだ生きてる間に聞かせてちょうだい”って、そう言ったんだ。
……
それも悪くない。少なくともその命が尽きる最後のひと時、彼女は寂しい思いをせずに済んだのだからな。
昨日宿屋で麺を食べてた時に聞いたんだけど、みんなあなたを送るために色々と話し合っていたよ。
そうなのか……?
あなたもここから出ていくの?
もう百有余年は留まってきたからな、そろそろほかの場所にも足を運ぼうと考えている。
そんなに長い間いたのに、ここはあなたの“家”じゃなかったの?
……皆ここを守ってくれてはいるが、ほとんどの者たちの家は大炎それぞれの場所にある。
ただこの都市がこれから向かおうとする道に、私は共に歩めないだけだ。
もし師匠が死んでいなかったらの話だけど、ここを出ていったら師匠に会いに行ってた?
……
来て去る景は春なり、悵然なる心は秋なり。
嗚呼、これが人というものなのか。
……
あなたってば、本当にアナサに似てるんだね。
アナサ。それはいつまでも彷徨う、根無し草のように生きる人々。
(古いサルカズ語)……そうなのかもしれないな。
男の発音も、言葉遣いも、とても正確なものだった。
だがこの男は自分の一族の者ではないことを、アナサの少女は誰よりもそれを知っている。
この男は単に多くの場所へ赴き、多くの人たちを見てきただけなのだと。
もういいや、剣は返すよ。私もこれ以上は聞きたくないし。
最初から少女のすべての問いかけに対して、男は何一つ明確な答えを出してはくれなかったのだ。
答えていないが、避けてもいなかったような曖昧な答え。
師匠があの頃どういう心情でここを出て行ったのか、その時アナサの少女もふとそれに気付くことができた。
時間の無駄だった、私はもう帰るよ。
……
(ジエユンがチョンユエに剣を返した後に倒れる)
だが突如、アナサの少女が地面に倒れ伏した。
どうやらとても弱っていたようで、今は単に眠りについてしまったようだ。
この子、これほどの傷を……
それに……この剣を鞘から抜いたのか?
男は剣を鞘から抜き出す。
しかし以前と何も代わり映えはしていない。ほぼ尽きかけてしまった、あの故人への翳りが消えてしまったことを除いて。
媒介は……この額の装飾に嵌めこまれていた玉石か……?
以前からずっと付けていたものだ。心を鎮め、邪を払うことができるという……
……
なるほど。
この一手、まさか落とされてすでに数十年にも及んでいたとは。
だが、その目的が単にこの剣だけとなると、あまり高明な一手とは言えんな。
……となれば、あの人が目的か?
己の道を考量するばかり、よもや棋盤にあるもう一つの角を見過ごしてしまっていたとは。
フッ。
そうだったのか……
まさか、そこまで落ちぶれてしまっていたとはな……
実に滑稽で、笑えてくる。
今にも見てみたいものだ。お前が如何にして……
屈辱を呑み込もうとしているのかを。
なあ、“歳”よ?
先は平祟侯の軍帳に現れ、そして今度は玉門中枢区画にある中枢制御室ときたか。毎度そうして招いてもいないのに押し掛けてくるのは、あまり失礼なのではないのか?
……
おや?
剣は取り戻したみたいね。
つい先ほどな。
なら、彼もあなたの秘密を知ったってところかしら。
どうやら貴公は……私のあの弟と一度会ったことがあるみたいだな。
あなたは“ヤツ”を自分から切り離し、そして封印した。一方彼は、そんな“ヤツ”を取って代わろうとしている。
あなたたち“兄弟”のヤツに対する態度、為そうとしていること、どれもとても大胆で、とても面白みがあるわ。
けど結末を見れば、すべては無聊で幼稚な小細工に過ぎない。
貴公が為していることも、下策とも呼べる小細工ではないとも言えんな。
貴公が此度ここへ現れた目的、それは天災にあらず、この都市にあらず、ましてや私が所持しているこの剣にもあらず。
ここまでの騒ぎを引き起こしたのが、単に道を尋ねようとしていただけだったとは……
ただ単に、歳の居場所を知るためだけに。
あなたにヤツを一緒くたに論じる資格があるとでも?
ちょっと気付くのが遅すぎるんじゃないのかしら?
私も一時忘れてしまったものだよ。朝廷と私の弟妹たちを除いて、この地でヤツに深い関心を抱いている者などもはやいるものかとな。
本末転倒ね。あなただって、すでに自分が元々どういう存在だったのかを忘れてしまっているじゃないの。
……
獣に相見えようとする者は、当然ながらそれは獣である。
久しいな。
実に、久しいぞ。
それは、この世に存在する最も得体のしれない口ぶりであった。
冷然で皮肉混じりの幽かなため息だったか。あるいは幾千万もの情緒が一瞬にして吹き出たような、歯ぎしりするほどの咆哮であったか。
未だ嘗て、このような記憶の奥底に深い傷を彫り込んでいく声などあっただろうか。
遡れぬほどの太古の昔から、ヤツは、ヤツらは、かつてこのように対話をしていたのである。
……
私がこの地へ戻ってきたのは、自ずと私たちの間に存在する借りを清算するため。
だが器物の中に残存した欠片風情が、なんの資格があってこの私と対話することができる!?
私が会おうとしているのは、元の姿のあなただった。
……
……
一つ、気になっていることがある。
あの巻き狩りの後、貴公は傷を負いながら、この世のありとあらゆる場所へと逃げて行き、消息を絶った。にも関わらず、なぜよりによってこの時に炎国へ戻ってきたのだ?
……
やはり私のあの弟が、貴公を呼び覚ましたのだろうか……
……
それと貴公と同じ時期に現れた山海衆も……
あの人たち?フッ。
同じ目標を持っていたから、ついでに手を組んだだけよ。
ゴビ砂漠で出会ったものでね。生まれつつあった今の天災を共に享受し、少しだけ私の権能を見せてあげたの。
そしたらあの人たち、ここまで獣を理解している人がいたとはって、たいそう驚いてくれたわ。私が獣とヒトとを繋ぐ使者だって、信じるようになったのよ。
形だけの者もいたけど、でもみんな、必死こいて自分の信仰の篤さを私へ証明しようとしていたわ。獣の鱗や爪から生まれし存在とかいう、訳の分からない信仰をね。
彼らは日夜、自分らの同胞が犯した悪を罵り、今ある秩序を覆すことを妄想し、この世を俯瞰する視点を崇拝し、自分たちの信仰を獣たちに伝えようと、訳の分からない呪文を私に唱えてきた。
自分たちの信じている信仰そのものが、すぐ傍にいることも知らずにね。
仮に山海衆との遭遇は偶然だったことにしよう。ならお前は、最初から中枢区画にある制御室へ潜入し、歳の居場所へ向かうよう玉門の航路を変更することが目的だったわけだ……
であれば、山海衆がここに来た目的はなんだ?
玉門を壊滅させることだろうか?いや、それは考えづらい。
お前と遭遇するまで、ヤツらは玉門の航路上に運悪く天災が居座っていることを知らなかったはずだからな。
人間のくだらない陰謀には興味はない。
私はただ、混乱を生み出す人手だけが必要だったの。
つまり、人間の言葉を借りれば――貴公は、貴公の信徒らを“利用”したわけか。
それがどうかした?
……
自分たちはどういう存在なのかを考え、それを覆そうとするような、ヒステリーを起こした連中よ。
生まれてから死ぬまで妄想に留まっているだけの人間より、少しは面白かったってだけ。
でも、所詮は少しだけよ。
自らが信仰していた“神”が、ここまで自分たちを冷たく見下ろし愚弄していたことを知れば、彼らは一体どう思うのだろうな。
私たちのような存在が、いつからあんな矮小で醜い生物の信仰を必要としたのかしら?
あんなものを必要としているのは、歳のようなバカな奴だけよ。
……
……
もう行ってしまうのか?
あなたとこうして話してあげてるのは、あなたがヤツの欠片だったからに過ぎないわ。
まあ、どのみち時間の無駄だったけど。
先日、貴公と一戦を交えた時から気付いておくべきだったよ。あのような真に迫るような花の香りと春景は、決してアーツによるものではないとな。
司歳台最古の史料にはこのような記述が残されている。“睚(ヤア)”という名の獣あり、春秋を剪定し、懐に納めんと……
ヤツの記憶を有しておきながら、人間が付けた呼称で私を呼ぶなッ!
“睚”ですって?
“歳”と同じで、まったくもって醜い呼称だわ!
春秋を剪定する?
人間の時間を計る尺度には、本当に失笑してしまうものだわ。
これは幻ではない。ここまで真に迫った幻は存在しないからだ。
これは怱々に過ぎ去ってしまったいつかのひと時。
または、永久(とこしえ)に過ぎ去ることのない今あるひと時だろうか。
どちらにせよ、時はすでに止まってしまっている。
八千年を春と為し、また八千年を秋と為す。
寒々とした一江を望めば、立ち並ぶ樹木はみな寒碧なるさま。目に映る景色は幻にも思え、果ては見えない。
しかし、時は今も動き続けている。
孤舟一点、両者はそれぞれ舟の両端に立って睨み合っていた。
やがて漣が船尾から広がっていく。
私を足止めするつもりね?
まさしく。
貴公が見せた空間能力はまさに奧妙にして尽きることがないが、それでも貴公をここに留めておかなければならない。
必ずな。
本来ならば、私はすでに玉門を出たはずだ。
貴公からすれば、天災にしろ玉門にしろ、どれも歳と同列に論じられる存在ではないのだろう。
だが生憎、私は歳になんの興味もなくてな。
貴公からすれば、今この外で起こってる事象すべては、目の端に映る浮雲に過ぎぬのだろう。
だが私にとって、それは今も綻びている城壁、傾く家屋、苦難を強いられている将兵と子民らなのだ。
そして……憎しみと共に死んでいった旧友でもある。
そんな彼らは、貴公の存在を知らぬまま、今も天災に立ちはだかっている。
であればその玉門のためにも、誰かしら義を求めてやらねばならないだろう。
だが思考を巡らせてみれば、それをしてやれるのも今はこの私だけなのだろうな。