よし、ここならしばらくは安全だよ。
カドール、外は相変わらずめちゃくちゃだったよ。あたしたちがロンディニウムから離れてしまったことも確認できた、ガントリークレーンの上からなら区画の外の状況も見れるかもしれないね。でも近づけなかったよ、あそこは封鎖エリアの外だからさ。
それに見れたとしても意味はないしね。サルカズの監視だって厳重だし、人数だって……かなり多い。
……分かってる。
それよりこいつはどうしたんだ?
ふふっ、サルカズと直談判がしたかったらしいよ。
結果は?
自分で見てみなよ。
手当はこんなものかな。まあ、これくらいしかできないけど。
ありがとう……本当にありがとう。
あぁなんてことだ、どうして……一体なにが起こったんだ?
ほかに何がある?サルカズたちはロンディニウムに入ってきてもう四年にもなるんだぞ。
まさか今もあの可愛そうなキャヴェンディッシュが招待してきたお客人だとでも思っているわけか?
しかし彼らはこれまで一度も……
これまで一度も、がなんだ?
どうやらお前は世間にまったく顔を出さなかった貴族のボンボンみてーだな、朝食のミルクだって使用人に持ってこさせなきゃならねえような。ハッ、そんなお前がどうしてここノーポートみたいな場所に来ちまったんだか。
いや、私は学者だ。ただ少し、経済面で困ったことがあってな……もし今の原稿を書き終えていればきっと……
クソッ、その原稿を書斎から持ち出すことすらできなかったなんて!
ベアード、お前はホントに落ちこぼれどもを見つけるのが得意よなァ。
もう少し個人を尊重してやってくれないかね?もし上手くいけば、私は王立科学アカデミーの次なるトップになれたかもしれないのだぞ!
“なれたかもしれねえ”だろ、フンッ。
やはりどうしても理解に苦しむ。ニュースではいつもああ言っていたではないか……
“すべて異常なし”ってか?ラジオでこれ以外の言葉が聞きたかったとでも?“市民の皆様、誠に遺憾ながらロンディニウムは本日を以てクソ溜めとなりました”とかか?
数年前、各新聞社やテレビ局へ派遣されていったあの“特別指導員”だって、タダで給料をもらってるわけじゃねえんだ。
ハイバリー区の軍需工場の上で誰の旗がはためいてるのかが分からねえのかよ?ならつい数日前オークタリッグ区で起こったあの大火災なら憶えてるだろ?
しかし、これは戦争だぞ……都市防衛軍はどうした?大公爵たちは?彼らはすでにロンディニウムの周囲に陣を敷いて私たちを守っているのではないのか?
どうしてこんな……サルカズごときが大公爵たちに敵うはずがない、違うかね?あの魔族どもは所詮荒野で縮こまっているだけの野蛮人、それと比べてヴィクトリアはこの大地で最も偉大な国家なのだぞ!
誰がそんなことを教えたんだよ?家ん中でドーナツを食いながら突然ピンときたのか?
どうせサツが俺を壁に抑え込んでボディチェックをしてきたあの時から、一度だってそんな風に思っちゃいねえぜ。
もういい、“次なるトップ”さんよ、ささっとここから出て行きな。俺たちと一緒につるむにゃ、お前は人が違いすぎる。
しかし……どこに行けばいいというのかね?
私のアパートはこの封鎖エリアの外だ、忠実な使用人もどこへ消えたのやら……ここじゃ私は独りだ、知り合いなんて誰もいない。
チッ。
じゃあ、できることは何かあるかな?医療、裁縫、メンテナンスとか。ほかでもいいよ。
わ、私はもっぱら紋章学しか研究していなくて……
ケッ、空気からステーキを作り出す学問の研究はねえのかよ?
それについては……私の学術分野ではないため、少々難易度が高いかもしれんな……
おいベアード、これ以上お偉い方を拾ってくるんじゃねえ。こいつジョークすら通じねえじゃねえか。
俺たちの物資の蓄えだって限りがあるんだぞ。
はぁ……それなら、倉庫管理を任せてるダフネの手伝いをさせるのはどうかな?
こらベアード!まーた私に厄介事を押し付けるつもりなんだね!
このまま彼を街中で死なせるわけにもいかないでしょ。
こういう時だからこそ、なおさら団結しなきゃ。人手は多いに越したことはないよ。
“団結”って……はぁ。
議会も大公爵たちも、あなたたちのそういうところを見習ってほしいものだよ。じゃなきゃ私たちがこんな風に落ちぶれることだってなかったのに。
彼らが団結していないって言いたいの?それなら国王を吊し上げたことを思い出すといいよ、十分団結してるじゃん。
あの時は……はぁあああ、もういいよ。
少しは役に立ってくれることを願っているよ、ミスター“トップ”。
全力を尽くすよ!ところで……君たちは一体?
俺たちか?
ヘヘッ、ようこそ!“顎ズレ”ボクシングジムへ!
俺たちのことならグラスゴーギャングとでも呼んでくれや。
ハイディ、元気にしているか?
正直言って、いま君がどこにいるのか皆目分からない。本屋を営んでいるアダムスさんが死んでから、君と連絡が取れなくなってしばらく経つ。
私もすでに自身の責務を全うできなくなってかなり経つよ。
どうか許してほしい、私の親愛なる友よ。私は一度だって君に隠し事をしたことはないんだ。
でも確かなことが言えるのは……私はとても迷っていることだよ。
君はかつて、私に話してくれた。平和は必ず再び訪れると……
でも私は、もう偽物の希望で自分を騙したくはない。もう部屋の中に隠れて、私たちがこれまでしてきたことには意味があったと自分に言い聞かせたくはないんだ。
そうさ、それなら私たちはもっと長い尺度で物事を見渡すことができるかもしれない。“歴史という尺度”で……
それなら無論、平和は訪れる。いつか必ず訪れる。
だが戦争は、きっとより惨たらしくそれを打ち砕いてしまうだろう。
私はかつて信じていたんだ、私たちなら勝てるって。今だってそう願っている。
しかしハイディ、もしも私たちがしてきたすべてが、最後には単に自分への慰めや許しと化してしまうのであれば……
いや、もしもという話でもないな。おそらくはもう、事実と化してしまっているのだろう……
ここにある書籍、何台かの学習机、そして今にも崩れてしまいそうな学校が……どうやって一つの時代に抗えばいい?
ハイディ、私はもう無理だ……もう、堪えられそうにない。
私は一体どうすればいい?
(モリーが近寄ってくる)
ゴールディング先生、大丈夫ですか?
モリー……帰っていたのですね。
手紙を書いているのですか?
いえ、なんでもありません。
ただ……以前読んだ小説数冊のことを思い出しただけです。
主人公たちはどれも才気にあふれた軍人で、体面のいい軍服を着て、パイプを咥えながら前線へと赴いていく。
しかし原作者は永遠に私たちへ教えてくれることはありません。一体どこの戦場なのか、塹壕にはどういった匂いがしているのか。
そして主人公に恋慕を抱いている紳士淑女たちが一か所に集まり、ハラハラとした気持ちを抱きながら、精巧に作られた茶菓子をつまんでいく――
むろん私たちは知っていますとも。これはたかが文学におけるある種の技巧だと。エンディングは必ず円満に終わると。
少々こだわりを持っている作者であれば、ここで評論家たちが言ういわゆる“厳かな”雰囲気を加えていくことでしょうね。
物語の中に、避けられたはずの死という描写を散りばめるのです。いつも決まって主人公の戦友が英雄をかばって前線の塹壕で命を落とすパターンですが。
そして最後には、凶悪な敵は主人公の手によって倒され、正義と道徳が再び示される。
戦友の悲し気な葬式においても、栄誉を意味する花びらが棺に降り注ぎ、人々な粛々と彼らの偉業へ弔辞を捧げる。
ここが一番感情を煽られるポイントですね。主人公たちは手と手を繋いで、涙をぬぐいながら、決意に満ちた眼差しで果てにある朝焼けを望んでいく――
そして彼らはこう言うのです。希望はいつか必ず現れるものだ、すべての犠牲には意味があったのだと。
さて、原作者はようやくここで筆を止めることができるようになりました。本当の美しき未来は読者たちの想像に任せるのです。最後に厳かな雰囲気で締めれば、彼らは満足するのですから。
先生がまだそういった小説を読んでいたなんて。
何年も昔の話ですよ。誰しも年頃になれば経験することではないですか。
私がまだ少女だったころ、そういった本にとても夢中になったことがあったんです……主人公にはそこまでの感情を抱くことはありませんでしたが、その代わりああいった死の描写に心を掴まれてしまったんです。
時折、自分自身がそういった偉業のために命を捧げた英雄であるという風に想像することがあります。人々は涙ぐみながら、私が造りだした時代を讃え……あるいは、せめて私の犠牲を讃える場面だったり……
ふふっ、今思えば幼稚ですね。
それからして、自分はもう十分頭が冴えたと、こんな砂糖がまぶされた幻想など見抜くことができるようになったと思い込むようになりました。
けど気付いてしまうんです……今の私は、あの時となんら本質的には変わらなかったんだと。
そんなことはありませんよ、以前子供たちに言い聞かせていたじゃないですか。死はとても厳かな話題ですよって。
……ふふっ、そうでしたか?憶えていませんね。
それはきっと、単に私がいつもしているようなお説教だったんじゃないですか?
ところで、今日は順調に買い出しができましたか?
ええ、街の状況はそこまで悪くなかったですし、お店の品の物価も上がってはいませんでした。ただ防衛軍は以前よりも頻繁に見かけるようになりまして。サルカズの兵士たちも……コソコソしなくなりました。
とはいえ、みんな相変わらず見て見ぬフリをしていましたよ。ただ……ノーポート区だった場所を除いて。今じゃあそこは周囲の区画から延びてきてる鉄筋しか残っていませんが。
……あそこが、ですか?
モリー、もう一度君に謝らせてください。こんなことに君を巻き込むべきではなかった。ただ……私はすでにレトに狙われてしまっているんです。毎度外出する際、いつも良からぬことを思っている輩に後をつけられてしまっている。
だから賭けるしかありませんでした。君がまだ彼らの監視リストに書き加えられていないことに。
いいえ。ロンディニウムにいる皆さんのためなら、私は喜んで力になりますよ。
ただ、先生が仰っていた場所なんですけど、今はどこも寂れてしまいました。合言葉も使ってみたのですが、返事がまったくなくて。
もしかして……もしかして彼らは、もう諦めてしまったのでしょうか?
いいえ、彼らなら私たちよりもはるかに強かな人たちですよ。
それと一通の手紙を見つけました。おそらくは先生に残したものと思ったので、まだ開けていません。
これは……いや、これは彼らの筆跡ではない。
……手紙には、自救軍の情報交換所にあるほぼすべての情報が詳細に書かれている。
なんですって!?でも、そんなバカな……
これは脅しですね。
向こうは……私たちのことを把握済みだということです。
じゃ……ゴールディング先生、私たちはどうすれば!?
……
モリー、もう一度ポイントが書かれたリストを渡しておきます。
そこの拠点は私も直接行ったことはありませんが、情報の出処を分析した結果を見るに、彼らはおそらく……そこにいるはずです。
こんなリスキーなことをするべきではないのは分かっています。責務の掟にだって違反している、でも……
自救軍にとっては非常に重要な情報、なんですよね?
多くの人の命が関わってくることです。
では直ちに。
……モリー、私が教えてように、あらゆる尾行してくると思われる者には警戒心を向けること。たとえ後をついてきてる人がサルカズであろうがなかろうが、油断しないように。
そこに向かったら、クロヴィシアという女の子を探してください。あるいはクロヴィシアと連絡が取れる人なら誰でも構いません。情報網全体が漏れてしまった、すぐに移転するよう伝えてくださいね!
ゴールディング先生、どこか行かれるのですか?
レトのオフィスへ。
……なるべく時間を稼いでおきます。
しかし――
心配はいりません、私なら平気ですよ。私は……
自分が想像するよりも強くいてくれればいいのですが。
……
ドクター、夢を見ました。
……この都市を覆う暗雲。一つひとつの建物の上ではためいている、血に染まったサルカズの旗。都市の外……至るところで結晶化している源石。
大地に君臨する鉄さび色の玉座、それに跪き、黒い涙を流す人々。玉座に座る人が軽く腕を振り、やがて空へ響き渡る叫び声。
そして玉座の影に覆われる中、ひっそりと顔を上げていく畏縮した人々……
そんな彼らの感情が伝わってくるんです……
どう言葉で言い表せればいいか分かりませんが……なんだかとてもグチャグチャで、抑圧的で……
表面に浮かび上がったものしか判別できませんでした。あの苦しみを……
……そして恨みを。
……
玉座に座っていた人は……一体誰だったのでしょうか?
あれはサルカズの魂たちが予見した未来なのでしょうか?それとも、魔王の使命?
テレジアさんもこの夢を見たことがあったのでしょうか?もしかして……彼女が求めている場面はこれなんじゃ?
いえ、そんなことはありませんね。
ドクター、これはただの夢……なんともないただの夢です、そうですよね?
・近頃疲れが溜まっているのだろう。
・ただの夢さ。
……ありがとうございます、ドクター。
そうですよね、ただの夢……ですもんね……
(アスカロンが近寄ってくる)
アーミヤ、ドクター。
ケルシー先生の容態はどうなりましたか?
いいとは言えない。彼女の身体は……元から痩せているからな。傷口だって深い。
シャイニングがすでにいくつかの方法を試してくれているが、効果はどれも今一つだ。彼女もまだ目は覚めていない。
Mon3trはゆっくりとではあるが、自己修復を開始している。ヤツについても、どこまで回復できるのか、あるいは本当に回復できるかは分からない。
……
……ドクター、もし都市防衛軍の司令塔で私が……
・みんなベストを尽くした。
・あそこでテレシスが現れるなんて誰も思いつかないさ。
ケルシー先生……
まさか、あのケルシー先生がこんな重傷を負う日が来るだなんて……
先生はいつも余裕綽々とすべての問題を解決し、私たちに最善のアドバイスをくれました。
あのケルシー先生ですよ?先生が疲れ切った様子も、これまで一度だって見たことがなかったのに!
でも、今は……
……
ドクター……
(アーミヤの手を繋ぐ)
分かっています、自分の責任はちゃんと全うしますよ。ここにおけるロドスの使命はまだ終わっていないんですから。
でも今は……もう一度だけケルシー先生の様子を見に行きたいんです、ダメですか?
隣に少しの間だけ座っているだけでもいいんです。
重傷者に付き添ってやるよりも、今はもっと重要な仕事をしなければならないはずだ、二人とも。
クロージャから伝言を預かっている。都市防衛軍司令塔にあったあのデータの解析が済んだ。
クロヴィシアは、今ちょうど会議を召集している。
もう一度ロンディニウムの情勢をアップデートする必要があるとのことだ。
・戦争が始まってしまったからな。
・我々の計画の第一段階は失敗してしまったからな。
ではオーダーをくれ。次は何をすればいい?