ラテラーノにいった頃、儂はあまり祈祷することはなかった。
無論あの頃における儂の信仰に瑕疵があったわけではない。今の儂がより信心深く、謙遜で勤勉であるとは限らないかもしれぬが、あの頃はより尊大で怠惰であったのだろう。
ただかつてラテラーノに身を寄せていた頃、その環境に影響され、多くのことに必要性を見出していなかっただけだったのだ。
ラテラーノにいれば、人々が求めるものすべて、聖都の恩恵と祝福はそこにあるのだから。
どこにでも。何であろうと。
サンクタたちはそれをよく理解していた。
「主よ、どうか儂をお許してください……」
「かつては助けを求める者であれば誰であれ、分け隔てることせず、己のなせる限りを尽くして手を差し伸べると誓いました。」
「しかし儂は、その誓いを破ってしまいました。」
「助けを求める者に応えることも、その者たちを引き留めることもできませんでした。儂らが抱えている物資が物足りないために受け入れられない、ただそれだけのために。」
「片方の人々ともう片方の人々を、儂はどちらか一方を選ばなければなりません……」
「……選択です。そう、これまで儂は何度も選択に迫られました……」
「しかしどれも誤りでした。そして今、儂はもうこれ以上の誤りに耐えられなくなってしまったのです。」
「これ以上信仰を背き、人を救うために人を見捨て、大のために小を切り捨てることなど!」
「ラテラーノ……久しい久しい儂の故郷よ……」
「なぜ、ラテラーノのみが楽園なのでしょうか?」
「もし信ずる導きを背かなければならない限り、儂の信仰が成り立たないのであれば。異教の力を借りなければ、障碍を乗り越えることができぬというのなら……」
「……その答えもすべて、直にやってくることでしょう。」
「主よ、もし本当におられるのであれば、どうか儂の犯した罪をお許しください……」
「――!」
誰だ!
……
おっと、まあまあそう急いで手を出さずとも。まずは話ししようじゃありませんか。
随分と探しましたよ、主教様。
最近は食料がすっからかんでな。これっぽっちしか出すことはできないが、構わないな?
とはいえ、ほかには何もない。味もロクなもんじゃないだろうし。腹を満たすだけなら、辛うじて食えるってところかな。
食事ならしばらく必要ありません。
そんなこと言わずに、食べてくれよ。せっかく出してやったんだ、無駄にしないでくれ。
……
サルカズたちを率いる者ジェラルド。あなた、このリーベリの子供二人のことを知っていますね?
……お前って、いっつもそんなド直球にものを聞いてくるのか?
率いる者なんて、これでも本物のサルカズの王を見たことがあるんだ。こんな一介のハンター風情にそう呼ばれる資格はないよ。
ではなぜ、あなたはハンターを自称しているのですか?
ハンターだからさ。狩りで自分やほかの人たちを養っているからだよ。
お前、今日ここに来たばかりだろうが、大方ここの情況は理解できているんじゃないのか?
はい、完全ではありませんが。
あなたはサルカズたちを率いてここで暮らしていますが、ここにとってあなた方はあとから来た者たち。それでも、以前からこの場所によく溶け込んでいます。
そうだな、以前は。
しかし今、ここの住民たちと諍いを引き起こしてしまいました。現段階の状況から判断するに、この関係はますます悪化してくるでしょう。
その通りだ、だから私たちはここを立ち去ることにした。
通常なら、ほかの住民と衝突が発生した場合であっても、あなた方は有利な立場にいるはずです。
なぜなら、ここの原住民たちで戦いに長けた人員はそれほど多くありません。彼らに戦闘力が足りていなかったのも、あなた方を受け入れた理由の一つでしょう。
しかしラテラーノが介入したことで、あなた方は武力面における優勢を喪失した。そのため、穏便で妥当な選択肢として立ち去ることを選んだということですね。
合理的な説明をすることが得意ようだな、執行人殿は。
だが私はとっくの昔から分かっていたのさ。今だって時々――
私たちの暮らしは決して合理的なものではないことを気付かされるよ。
蝋燭の灯火が揺らめいた。
年長のサルカズが視線を壁に落とし込んでみれば、そこには朧気な影が映っている。そこから見える相違は、何もかもが不明慮だった。
だがな、生きていけないから立ち去ることを選んだわけじゃない。
ここへ来る前は正直に言って、これほどの暮らしが手に入るとは夢にも思わなかった。
リスクもいざこざもたくさんあったが、それでも私たちは認められ、受け入れられ、自分たちの手で住処を建て、働いて食料を手に入れた……
お前から見れば至って普通のことかもしれないが、私たちからすれば……以前では考えることすらできなかった日々なのだよ。
では、あなた方がここを離れる本当の理由は一体?
簡単さ。
お前の言った通り、いつか衝突が起こることは分かっていた。壁も最初からあったし、誰も修復しちゃくれないから、ただ悪化していくところを見ているだけ……
今はまだ口論だったり、互いを責めることだけに留まっているだろうが、はたしてこの先はどうなるか?
……口論は直接的な暴力となり、一般の住民たちとサルカズが互いを憎み合う可能性がますます高まっていくでしょう。
そうだ、だから今夜起こった火事はその警告だったのかもしれん。
今ここを離れれば、私たちは懐かしき仲間として、惜しまれる友人のままでいられるとな。
だがこういった惜しむ感情を抱いたまま、いつまでもグズグズしていると……
私たちもいつかは周りに見られるサルカズに――あの争いを引き起こすだけで、どこにも歓迎されず、帰る宛も行く宛てもない流浪する者どもになってしまう。
それはただの偏見にすぎません。
私たちにとっては事実さ。
サンクタにはラテラーノがある。
だがサルカズには……私たちの場所などといったものはいつ存在いた?
……
だから今が頃合いだと、私はそう思ったんだ。
遅れて生まれてきた若い連中は、きっと屋根のない夜の暮らしには慣れないかもしれんが、いずれは適応してくれるさ。
それとあの幼子二人のことだが……
あの子たちを知っていますね。
……ああ、あの子たちの身元なら少しは知っている。
修道院内の住民たちやレイモンドは知らないと仰っていましたが。
あの子たちの存在を知ってる人たちがそもそも少ないんだ。
と言っても、私も単に当てずっぽうだがね。あの子たちはおそらく外から流れてきたか、親が遭難したか、はたまた捨てられたか。どれも可能性はある。
以前ならステファノが似たような者たちを受け入れていた頃もあったんだが、今の状況からして、これ以上の受け入れはかなり負担がデカくてな。
だがそれにも関わらず……誰かがこっそりあの子たちを引き取ったというわけだ。
その人が誰なのか、あなたは知っているのですね。
いつまでも完璧に隠し通せるものなんてのはそれほど多くはないからな。特に稲穂のたった一粒だけでもとやかく言われてしまうこんな時に。
あの子たちを引き取ったのはヘルマンだ。毎日もらった分の食料をある程度節約したり、何回かこっそり狩りの獲物を少しだけちょろまかすことがあったんだ。
そのことに気付いた後、私が代わりに食料を補ってやったんだが、だとしても彼女らの日々はほかと比べても厳しいものだったよ。
そのヘルマンは今どちらに?
……私も知りたい。今日は本来なら彼女が狩猟から帰ってくるはずだったんだが、今になっても消息が分からないままでな。
つまりまだ見つかっていない、彼女は失踪したということだ。
バカな真似だけはしないでもらいたいものだよ……
失踪?いえ、失踪ではありません。
どういう意味だ?
ヘルマンは秘密裏に幼子を二人引き取り、普段から勝手な外出に許可は出していないはずです。アランデールとエステラは偶然、聖堂に現れたわけではありません。
……つまり、誰かがあの子たちを連れ出したということか。
ヘルマンさんの住居はどこです?直接確かめる必要があります。
ボロボロな掘っ立て小屋は、幼い子供たちにとっていわば港のようなものだ。
なぜなら大人に養育する力がなく、そのまま必要とされなくなった廃棄物のように捨てられ、荒野を彷徨い、死に瀕する直前、無関係のサルカズに拾われたのだから。
やがてこっそりこの貧相な小屋に連れて来られれば、壁は隙間風を吹き、布団も暖かくはないにしろ、ボロボロだが清潔な衣服と、美味しくはないが腹を満たせる食料があった。
ここは寒風を完全に防ぐことはできないし、いくら家にある寒さを凌ぐ布地を積み立てて、冬服で隙間なく身体を包めても、眠っていれば思わず骨を蝕む寒さに身が縮む。
だがここは「家」だ。それに母親だっている。
ここが子供たちにとって、最も安心できる場所なのだ。
か細い呼吸音はまだ、招かれざる客に驚かされてはいない。
今も穏やかに、すぅすぅと途絶えることなく続いている。
だがやがて獰猛で歪な影が、子供たちに降りかかった。
(不気味な囁き)
……ヘッタラ、タベ……
うぅん……
(寝返りを打つ)
タベ、テ……
カラダ、ヒヤ……
かつての姿形を失ってしまったこのバケモノは静かに不気味な囁きを放つ。
ようやく、終始静止していた影に動きが出た。
月光降り注ぐ中、バケモノは太く力強い尻尾を前へ伸ばし、湿った気配を纏わる先端で子供の柔らかな頬を優しく撫でる。そして――
ふかふかでなんの抗力もない、小さな小さな「牢屋」の真ん中へ置かれた。
エステラとアランデールは今も夢の中だ。しかし身体は無意識に、安心感を覚える気配に身を寄せたのであった。
……ヒヤ、シチャ……
くぅ……くぅ……
ママ……
ア……ナカ……スイタラ、タベ……カラダ、ヒヤシ……
……
フトン……カブセ……
ヒヤシチャ……カブセ……
アラン……サラ……
主教様はここで何をされていたんです?
告解をしていただけだ。ラテラーノより来たりし執行人であれば、人の告解を盗み聞きしてはならんことは分かっておろう。
誤解しないでくださいな、主教様の告解の内容なら聞いちゃいませんよ。
俺がそんなこと聞きたいわけじゃないのは、主教様もご存じのはずで。鐘衝きに誰を向かわせたのかだったり、修道院内での食事はどう手配してるのかだったり……
俺が聞きたいのはですね、この上にある聖堂から伝わってくる匂いのことですよ。
まさか、そなたは可燃物の匂いが分かるのか?ではグリフィン区にある銃工場は……今もまだ残っていると?
はは、俺の知る限りじゃ、あそこは今も各学院に訓練用の銃を提供し続けていますよ。
むろん、焼夷弾もね。
……千年続けしものは聖都のみ、か。
主教様が悲しまれているのはよく分かります。まったく、これもぜーんぶフェデリコの野郎のせいですね。あいつはいっつもやること成すことが直球過ぎるんですよ。
今のところ焼損してしまったのは建物の一角だけで、ほかは無事なんですし、みんながラテラーノに引き揚げる計画に影響はありませんよ。どうでしょう主教様?
それなら質問する相手を間違えたな。
修道院にある兵器弾薬類ならすべてばらして燃料にしてしまったよ、その方法もとっくの昔みんなに教えてしまった。なんせここは冬が長いからな。
それでも儂があの火災を引き起こした張本人だと考えているのなら……反論はしないが。
まあそう言わずに。とりあえず座れる場所でも探して、そこでじっくり話し合いながら、お互い受け入れる案を作りましょうよ、ね?
話し合う?案を作るだと?フッ。
人に選択肢を与えてくれる案など存在するものなのだろうか?儂はすでにこちらの考えを伝えている、それでそなたらは譲歩してくれるとでも?
七年前、ここら一帯で大干ばつが起こり、一部の難民が荒野に停泊するこの修道院にやって来て、中に入れてくれと懇願してきたが、儂は門を閉ざしてしまった。
よたよたと、ほとんどがそのまま荒野の奥へと消えていったよ。ああいう場面は初めてではなかった。
儂も主に誓いを立てたのだ、これが最後だと。
それを踏まえて尋ねるが執行人殿よ、儂の信念は間違っていると思うか?
いえ、あなたの信念は真っ当そのもの。悲痛な思いも十二分に理解しています。
その点においては、ラテラーノにも力及ばないところがあるのでしょう。認めざるを得ませんが。
あるいは、法も決して完全なものではないとも。
……
人は考えれば、自ずと疑問は生まれてくるものです。
ただ……いくら不完全であっても、今のラテラーノは俺にとってもう十分満足すぎるところです。そこの平和と安寧を脅かすことなら、してほしくないし起こしてほしくもない。
あなたもこの感覚は理解できるんじゃないですか、主教様?
……
もしここで協議を達成し、主教様も余計なことをしないでもらえるのなら、こっちも仲間の説得がやりやすくなるんですけどね。
そちらが一切手を出さないのであれば、今回この外勤任務も楽に終えることができます。
俺が思うに、たとえ全員をラテラーノに連れて行くことができなくとも、その全員連れて行けないように道連れにする必要はないはずです。
そなたにとってラテラーノこそがすべてというのなら、儂にとってのすべてがここだ。
もうこれ以上話し合えることはない。
お引き取りを。告解の邪魔をしないでいただきたい。
レイモンドか?どうしたんだいこんな夜遅くに?休憩はいいのかい?
……お前か、クレマン。
なんでもない、ちょっとまだ用事があるだけだ。
今日は本当にすまなかった……
気にするな、どうせ俺たちはもうこっから出ていくんだし。
……うん。
いつ出発する予定なんだい……?
そいつはジェラルドさん次第かな。でも、少なくとも明日の朝には動く予定だ。
多分だが、朝のミサを終えたら出発だろうな。
ミサか……
そうだ、クレマン!あのさ、フォルトゥーナとデルフィーヌ……あいつらどこに行ったか知らねえか?
本当はあいつらを呼ぼうと思って……いやその、大したことはないんだが、とりあえず二人に用事があってだな。
……待ったレイモンド、ジェラルドさんからは何も聞かされていないのか?
え……?聞かされていないって何を?
……
デルフィーヌなら……もうここにはいないよ。
……
サヨ……ナ……
仮に私の聴覚に問題がないと仮定した場合――今の発言は別れの言葉の類でしょうか?
――!
どうやら、以前の判断には誤りがありました。今も一定の言語能力を有していますね。
アナタ……ハ……
サン、クタ。
思考能力、あるいは現段階において、まだ一定の論理的思考能力と自主的な決断力を保持していることが分かります。
身体はすでに異変してしまいましたが、まだ交流は可能であると。
……
感染する危険性の有無、ひいては時間経過につれ行動パターンに変化が生じるか否かも確認できないため、危険度は未知数。
公証人役場の関連条例に則り、公民の権益保護のため、現場でレベルの判断が困難である脅威の射殺を許可します。
……
反抗の意図なし。生きる欲求も確認できず。
申し訳ありません、なるべく苦しまないように尽力します。
バケモノはその場に立ち尽くしたままだ。
目の前にあるのは塞がれてしまった道、背後にあるのは振り返ることのできない過去。
弁明や叫びのすべて、苦しみと悔しさはこの堅い皮膚を貫いて外へ逃げ出そうとするも、人としての範疇からすでに逸脱してしまったこの身体の内側で消化されてしまった。
異形のバケモノは超えられない障碍を前にして、生きる気力のすべてを失ってしまったが、ほんの僅かに残された尊厳だけをは決して手放そうとしなかった。
この者はただ静かに、そこに立っている。
まるで一体の彫刻のように。
待ってくれ!
やめろ、撃つんじゃない!執行人殿!
……
……ジェラ……ルド……
……なあヘルマン、分かるか?私もステファノたちみたいに――執行人殿が言っていた“バケモノ”がお前ではないことを必死に祈りそうになってしまったよ。
……
最も論理的な推論ではありましたが、今それは実証を得ることができました。
そこをどいてください、ジェラルド。
それはできない。
……お言葉ですが、公務執行妨害です。
それは分かっている。いつでもこの罪深いサルカズを排除するためにトリガーを引いてやっても構わないさ。恨み言なら絶対に言わない。
だが、ヘルマンに手を出すことだけは許さん。
……理由を。
お前に“正当”だったり“合理的な”理由をやることならできないさ。
ただ一つ言えることはだな――
ヘルマンの後ろを見ろ。あのドアの後ろに、今も子供が二人眠っているんだぞ。
コ……ドモタチ……
ワタシノ、コド……
……
あの子たちはなんの訳もわからないまま、お前が母親を見つけてくれることを期待していた。
あの子たちはお前を信頼しているんだぞ。
サルカズが一人、数々の辛酸を舐めてきたその荒い手で、サンクタの銃を握りしめる手を抑えつける。
兄弟間にある親愛も頼りも、仲間同士にある信頼も理解もそこにはない。
それでもサルカズは確かにサンクタの手を抑えつけていた。
それに従って、銃口が次第に垂れ下がっていく。
やめるんだ、執行人殿。
自分で結論を出すまでは、自分で自分を説得してやれるまでは、それまでは手を出すもんじゃない。