
屋内に争った形跡はない、全部調べておいた。子供たちもまだ熟睡している、起こされてはいない。

ヘルマンがあの子たちを傷つけるようなマネはしないさ、その点は安心してくれ。

今はまだ手を出していないだけの可能性もあります。

彼女の理性もいつまで保っていられるか。

……感謝するよ。

しかしあの子たちが目を覚ましたら、ヘルマンのことをどう伝えるつもりなんだ?

あの子たちには知る権利があります。

時には知らないほうがいいことだってある。

それは私にアドバイスをしていると理解してよろしいですか?

そうじゃなくてだな、フェデリコ……そうだ、今みたいにお前のことを呼んでも構わないか?

ヘルマンを見逃したのも、子供たちからの信頼を得ているのもお前だ。だから決める権利はお前にある。

……

少し荷が重かったか?

重量ある装備は携帯していませんが。

フフ、今のはお前なりのユーモアにしておいてやろう。

ところで、何を見ているんだ?

これに見覚えは?

これは……布団の布切れか?この生地で冬に布団を作る住民は少なくないが、この模様は初めて見るな。

これはラテラーノでよく見かける花模様です。
そんなボロボロの布地に包まって、双子の寝息は相変わらず途切れることなく穏やかだ。
執行人もしばらく子供たちに目を向けてから、ようやく視線を傍らにある簡素な木製テーブルに移す。
そこには焼き物の小瓶が置かれていた。
瓶の中には、まだ完璧に枯れ果てていない浅い色をした花束が差し込まれている。子供たちを除いて、室内に見れる唯一の色彩だ。

これは……花か?少し萎えてしまっているな、おそらくここ二日くらい交換していなかったのだろう。

これもヘルマンの趣味なのですか?

それは……分からない。

私について来てくれている人たちのことは十分理解していると思っていたんだが、こればかりは……

……

直ちに聖堂へ戻る必要が出てきました。

サルカズ関連のことでしたら、現在把握している情報だけでも判断を下すには十分でしょう。

その判断とやらはなんだ?

まずは、あなたがはたしてオレン・アギオラスと交流があったかどうか――それを知る必要があります。

あの特使のオレンか?

はい。

交流ならほとんどないさ。ここに来て間もなく失踪してしまったからな。

なるほど。

ではあなたの名前についてお伺いします。あなたは自身をジェラルドを呼称していますが、本当の名前ではありませんね?

……十年も使われ続けてきた名前だ、今さら偽物だとでも?

私たちがここへやって来て、ボロボロの木の板で最初の住処を築き上げたあの日から、私は荒野で狩りをするジェラルドだよ。

ご自身がジェラルドを自認するのは構いませんが、あなたの自己認識はこの場合重要ではありません。

なら――
異様な緊迫感が言葉を口から転げ落ちるように駆り立てる。
しかしフェデリコは相手に発言の隙を与えない。
彼はこれまで十年も碌に使われてこなかった名前を口にしたのであった。

カズデルの内戦で頭角を現した傭兵。合わせて三十二もの罪状を抱え、かつて教皇庁傘下の三つの執行部隊を殲滅した、公証人役場が指名手配してる逃亡犯のうちの一人。

ホルスト・ディッフェンダール。

――!

とっくに知っていたのか……

はい。私ですら入手できる情報となれば、ほかの者たちも同様に把握していますよ。

最終警告です、ジェラルド。

あなたの正体はすでに暴露されました。

前方に建築物を確認、目標地点で間違いない。

それにしても、本当に自ら我々の修道院に住み着くサルカズがいるのか?まるで想像ができないな。

このまま行動を開始しますか?

焦るな、まずは上からの指示を待つ。

このまま観察を続けるんだ、どのみちここら一帯は我々がすでに包囲している。

先ほど捕らえたあのサルカズの集団みたいにな……

サルカズは一匹たりとも逃しはしない。

はい!

食事持ってきたよー。と言ってもそんなに見つかんなかったけど、ちょっとは食べたら?

ごめんなさい……食欲ないの……

いいよいいよ、じゃあとりあえずここに置いておくね。すぐにでもお腹が空いてくるだろうし。

……

ありがとう、スプリア……

どうしたの改まっちゃって?

ううん、ただ……ありがとうを言いたかっただけ。

感謝したいんだったらこいつら全部平らげて、それからさっさと寝てちょうだい!そしたら私もはやく仕事を切り上げることができるからさ。

そ、そうなの?じゃあすぐ寝るね……

……

……

……

ごめん、全然寝付けない……

だと思った。

ねえ、ずっとここにいて大丈夫なの?私もうすっかり元気になったからさ、だからその、えっと……わざわざ傍にいてくれなくても……

私をそんないい人扱いしてくれちゃってるけどさ、あなたを見張っておくのが私の仕事なんだよ?

……大丈夫よ、逃げないから。

それはどうかな。大人しい子であればあるほど、気を付けなきゃならないのが常だからね。

あなたの頭に生えているその黒い角、それどういう意味なのか知ってる?今あなたの状態のままラテラーノに連れて帰ったら、どういう目に遭うのかも分かってるの?

それは……分からない。

そりゃ分かんないでしょうよ。だってあなた、もう私の感情が伝わってこないんだもん。

……

そんな顔しないでよ、冗談だってば。教皇聖下はとってもお優しい人よ、だから不安にならないでちょうだい

不安にはなっていないよ。

どんな罰でも、私受け入れるって決めたから……
(部屋の外から物音が聞こえてくる)

なんの音かしら?誰か外にいるの……?

何が起きていようが、あなたには関係ないでしょ。

ここで待ってて、私が見に行く。

……ん?

おっかし、誰もいないけど?

しばらくぶりだってのに、随分と警戒心がゆるゆるになっちまったもんだな?

チッ、相変わらず嫌味たっぷりね。

ホント、ヴィクトリアにいた時は一体なにをやっていたんだか。まさか外でラテラーノの仇ばっかり作っていたんじゃないでしょうね、オレン?

そいつはとんだ誤解だぜ、一番せっせと真面目に働いていたのはこの俺だってのに。

んで仕事の話に戻るが、そっちはもう準備は済ませているはずだよな、スプリア?

そうかもね?

おい遠回りはきらいなんだ、はっきり答えをくれ。

もしこのまま予定通りに進めば、夜が明ける前に行動開始だからな。

(おかしい……スプリアがまだ帰ってこない?)

(外も静かになっちゃったし……)

(な、なんの音?)

ねえスプリア……?あなたなの?

きゃッ……むぐぐ!?

シッ、声を出すな。

俺だ。

レイモンド!?

ここから逃げるぞ、フォルトゥーナ。

やっと出てきた。

なぜあなたがここにいるのです、レミュアンさん?

ちょっとね。嫌なヤツに足止めを食らっちゃって、挙句目標に逃げられちゃったのよ……はぁ~あ、口にしたら余計惨めに思えてきちゃった。

ここに来たのは、近くで騒ぎが聞こえたからなんだけど……

それがまさかね、フェデリコくんがあんな脅迫じみたことを言い出すなんて。

脅迫?

あれ、違うの?

じゃあなたがさっき言ってたこと、あれ一体どういう意味だったのかしら……

事実を述べただけです。正確な判断は実情を把握した際の基盤の上に成り立つものです、特定の誰を脅迫する必要はありません。

そう……まあ分かったわ、あなたなりの考えがあるのでしょう。

でもね、人っていうのは一番予測しづらい生き物なの。自分ですら自分の考えが分からない時なんてたくさん。行動と考えが一致しないことも珍しくはない。

私の経験則からすれば、毎回事態が最も「合理的な」方向に進んでくれるとは限らないわよ?

……

とまあ、この話は一旦置いといて……どうやら私の想像よりも複雑みたいね、今の状況は。

さてフェデリコくん、ここで情報交換をしましょうか。

なるほど、私たちが見つけたあのバケモノが、ヘルマンって名前の失踪したサルカズだったわけね?

あなたが見かけた時の彼女の状態と私が遭遇した時の状態、聞く限りじゃ違いがあったみたいね。もし本当にそうだとしたら……

正常な生理現象を失い、意思疎通ができず、理性も喪失し、明らかな食欲をあらわにした状態から、僅かですが理性が残り、意思疎通ができる状態へと変化した。

まるで進化ね。

現段階ではそう推測できるかと。

彼女の身体になんらかの変化が生じたのです。以前イベリアが関わっている任務を遂行中に関連資料を漁ったことがありまして、いわく海岸付近で頻繁に活動するとある教会組織が存在すると。

深海教会ね。

よく勉強してるじゃない、フェデリコ。なら以前の任務でも類似した生物を見かけたことが?

ほんの僅かに。

それでも見たことに変わりはないわ。なら、話がはやいわね。

私も以前ちょっと気になることがあったから、少し調べたことがあったの……あの教会に関することなら、今後イベリアの裁判所と手を組むかもしれないわ。

聖下も最近はこのことで頭を悩ましていてね。それがまさか、ここでそれに出くわすとは……

厄介な出来事です。

そうね、とても厄介だし危険だわ……さっき私の邪魔に入った人も、相手が退いてくれなかったら、私も勝てたかどうか。

ちょっとムカつくけど……やっぱりはやく昔の状態に戻さないとね。さもなきゃあのニヤケ面の修道士どころか、スプリアにだって舐められちゃう。

ところでこの話のついでなんだけれど、本当にあのジェラルドって人に全部教えちゃってよかったわけ?

彼には経緯を知る権利があります。

そう、あなたがそう決めたのならとやかく言わないけど。それで、これからどうするつもり?

一つ、調べたいことがあります。

何かしら?

火が自ら燃えだすことはありません。聖堂の失火には怪しい点が見られます。

それとあの花たちも……いえ、まだ確定したわけではありませんが。

まずは、その可燃物を探す必要があります。

すまない、こんな時間に呼び起こしてしまって。

呼ばれてもすぐ起きれたからいいんだよ、もともと寝付けないやつも多かったんだし。

話ならすでにみんなにも知らせた、いつでも出発できるぞ。

しかし……この前は朝になってから出発するって言ってなかったか?どうして急にまた?

もしかしてあの火事が原因なのか……?

それなら絶対レイモンドがやったことじゃない、俺が保証する。だからこんな急いで出発する必要は――

いや、彼を疑ってるわけじゃない。

じゃあ……

緊急事態が起こってな。これは後で説明するが、とにかく朝まで待てなくなった。

以前、先に道を探しに行ってくれた先遣隊からまだ何も返ってきていないのか?

ないな。だから変なんだ、もしかしたら何か起こったんじゃないかって。

どうする?何人か俺が連れて探しに行こうか?

……いや、この際だから一緒に行こう。時間になったらほかの人たちにもついて来るように言っておいてくれ、置いて行かれないようにとな。

私は何人かベテランたちと一緒に、先頭で道を探すことにする。お前はレイモンドと後方の警戒にあたってほしいんだが、問題はないな?

……いいや、ありありだぜ。あんた、なんだか様子がおかしいじゃねえのか?

一体なにがあった?なんでそんな緊張しているんだ?

……もしかしてあのラテラーノ人たちのせいか?

……誤魔化せられんな。

変わらず慎重で何よりだよ、リード。

待った、今はもうそいつを名乗っちゃいねえぜ。

これはすまない、ただ……
ジェラルドは言葉を呑み込んだ。
なぜこの長い付き合いの相棒が自分の様子がおかしいと察することができたのか、自分が今にも知らずのうち腰に隠した刃物に手をあてていることに、ジェラルドは気付いていた。
彼は徐々に、ハンターとしてのジェラルドからあの傭兵へと戻りつつあった。

悪かった。さっきの雰囲気……あんまりにも私たちがまだカズデルにいた頃に似ていたから。

杞憂だといいんだが、なんだか心がぞわぞわしてな。私の直感と思ってもらえばいいが、なるべくはやくここを出たほうがいい。なるべくだ。

そう、なるべく早くな。だからお前にはすでに準備ができてる人たちを先に連れて、すぐに出発してほしい。

あんたはボスだ、あんたの指示に従うまでさ。いつも通りな。

だが一つだけ言わせてもらいたい。これまでの過去を気にすることなく過ごせるいい場所が見つかるって、前回もあんたの直感はそう教えてくれたな。

……

必ず見つかるさ、誓おう。

誓ってもらうまでもねえ、信じてるさ。

あんたが俺たちをここに連れてってもらったことは事実なんだしよ。
(サルカズの住民が立ち去る)

……無事にいけるといいんだが。

すまない、アイリーン。今度ばかりはお前を連れて行けそうにない。

私を責めるか?

もしお前がまだ生きていて、今の光景を目にすれば、お前は一体なにを思うのだろう……
(ドアのノック音)

……!

誰だ?

私だよ、ジェラルド。

今いいかい?

君に、どうしても伝えたいことがあるんだ……

ふぅ……やれやれ、ご老人にしちゃ当たりが強すぎるっての。

まったく……ただの任務で派遣されただけだってのに、こっちだってこんな居心地悪くしたくはないよ。

サルカズに堕天使、おまけに頭のイカレちまった主教も追加とは、勘弁してもらいたいね。ちょいと沼が深すぎるんじゃないのか、ここ。

しかもよりによって同伴の仲間があのフェデリコだなんて……トホホ、いいんだか悪いんだか。

こうとなりゃ、念には念を入れなきゃだな……
(無線音)

オレン、俺だ。

そろそろ動き出す頃合いなんじゃないのか?人手、そっちまだ余ってるだろ?

できればあのステファノって主教は調べておいたほうがいい、どうも怪しくてな。もしかしたら危険人物の可能性もある。

は?直感?

まあそんなもんかな……この修道院にいると心が落ち着かないんだ。いや、言い方が悪いな。そこそこ悪くない場所だから、なおのことそう感じてしまう。

あんた、俺よりも長くここにいたんだろ?そう感じることはなかったのか?

まったく、どうしてみんな必死に生きようとしてるだけなのに、これっぽっちの希望もない場所が存在するんだろうな?

こんなんじゃあんまりだよ。

こんなところかな……まさかレイモンドが知らなかったとは思わなかったよ。だからデルフィーヌとフォルトゥーナのことは彼にも伝えたんだ。

かなり感情的になっていたよ、彼。正直言って、ちょっと心配だ。

……

その……大丈夫かい?

……平気だ、心配するな。

お前は何も悪くないさ、いつまでも彼に伝えてやれなかった私に責任がある。

それで、レイモンドは?

私にフォルトゥーナのことを聞いてから、飛び出していったよ。フォルトゥーナを連れ戻すとかなんとかで。

彼女、傍にラテラーノの使者が付き添っているんだろ?本当に大丈夫なのかな……

……サンクタが彼の行いを許すはずもないさ。

レイモンドはここで生まれた子だ、ここは外とは違う。我々とサンクタがどういう関係なのか、あいつはまだ理解しちゃいないんだ。

確か前に言っていたよね、サンクタとサルカズは……

ひどい関係さ。

もし私たちが本当にただの一般人であれば、ここまで酷な扱いを受けることもなかったかもしれないが……

じゃあレイモンド、今やばいんじゃないのか!?

だから今すぐ探しに行く。色々と教えてくれて感謝するよ、クレマン。

私にできることなんて、これくらいしかないから礼には及ばないよ……

私もようやく分かったよ、君の決断は正しいって。君たちはなるべく早くここを出たほうがいい。

そう、今すぐに。とても賢い決断だ、なんだったら……明日を待たなくても……!

……そのつもりだ。

それよりクレマン、顔色が悪いぞ……また何かあったのか?

いや、なんでもない。でもちょっと……今日はたくさんのことが起こり過ぎて、少し、気分が悪いかな……

さあ、もう行ってくれ、ジェラルド。君の言う通りだった、私たちは同じ道を歩けない。もうここに残っては危険だ。

様子がおかしいぞ、クレマン。落ち着くんだ、お前――

大変だ、ボス!

どうした?

指示通り、先遣隊の連中とは反対の方向から出発したんだが、その先の道で部隊がこの修道院に近づいてきやがった!

部隊……?

ラテラーノ人だよ!サンクタ、しかも護衛隊の服を着た連中もいた!

昔は何度もあのクソどもと戦ってきただろ俺たち!だから間違いねえ、絶対アイツらだ!

すぐにでもここは包囲されちまう……へっ、分かるだろジェラルド?すぐにでも包囲されちまうんだ!

ヤロウ、連中最初から俺たちを行かせるつもりがなかったんだ!

……
ジェラルドは猛然と拳を握りしめた。
そして数呼吸を挟んだ後、彼は刃物を収めている革の鞘が熱を発していると思ってしまうほど、自分の指があまりにも冷え切っていたことに気付いた。

クレマン。

いるよ。これからどうすれば……

心配するな。

私はこれまでずっと逃げ回ってばかりだったからな、ようやくすべてが元に戻るだけだ……この事態なら、すぐにでも片が付くさ。

ボス、こっからどう動きゃいい?教えてくれ。

みんな覚悟なら決まっているさ、いつでもやれるぜ。

これまでの間、お前たちにも苦労をかけたな。

なんだよ藪から棒に。

何を、するつもりなんだ?ジェラルド、一体なにをするつもりなんだ!

落ち着いてくれ、まずはその刃物を下ろすんだ……!

落ち着いてるさ、クレマン。
サルカズの男は深く息を吐き、力強く刃物を握りしめると、銀雪のように光り輝く刃がゆっくりと鞘から抜き取られていく。
その刃は、あまりにも熱かった。
一瞬、この古い相棒さえ手から落っことしてしまいそうなほどに。

この十年もの間、今日ほど冷静だった日がないくらいにはな。

もし血を流せばすべてを終えることができるというのなら、それが私の最後の務めだろう。

心配はいらないさ、むざむざとサルカズの血を流しはしないさ。