
おっ、来てくださいましたか、主教様。

今日の礼拝堂の掃除当番はそなたであったか、ヨリー。

ご苦労さま。

いいんですいいんです。最近色々起こったせいで、おちおち寝ることもできませんよ。もとからちょっと不眠気味でしたし。

これから聖餐のご用意ですか?俺が持ってきますよ。

いや、構わんよ……

あっ、そうだった。いや~すいません、手が埃だらけなのすっかり忘れちゃってました。

あれ?それよりなんか匂いませんか?ほんのりとしたような匂いが……

何かおかしな匂いでもするのか?

いえ、むしろいい匂いです、すごく清々しい。なんだろうな、ある種の……生命力を感じるような、そんな匂いです。

うまく言葉にできないですけど、多分ここ風下ですかね?発生源は分かりませんが、この匂いを追っていけば……上のどこかに辿りつくんじゃないでしょうか。

……

]それはきっと花の香りだよ、ヨリー。

今日行う聖餐式で使われる種無しパンの三分の一は食用の花パウダーで作られたものだ、小麦粉が足らなくてね。

地下室に置いてるブドウ酒にも少しパウダーを入れておいた、あれは飲むには少々酸味が強くなってしまったからな。

そのパウダーはクレマンが作って保存してくれたものなんだ。数年前まで開花の時期が終わる前に、彼は良く花を収穫して、粉末状に加工してくれた……

花を愛しているように、儂らのことも愛しておったものよ。

……

修道院で行われる聖餐式は今回で最後になるが、食料が底をついてるせいで、みなの分量を半分に減らして雑穀も混ぜなければならなくなってしまったんだ。本当にすまない。

謝らないでくださいよ。今日の聖餐、とっても楽しみにしていますから……

そうか。なら、はやく顔を洗ってからみなと一緒にここへ来るといい、ミサが始まる前にね。

残りの支度なら、儂一人でも十分だ。

そうですか、分かりました。
(ヨリーが立ち去ろうとしたものの、途中で足を止める)

あのー主教様……明日から俺たちは、みんなは助かるのしょうか?

サンクタもサルカズも、みんなのことです……この修道院にいるみんなは、本当に助かるんですか?

ジェラルドさんはもう、あんなことになっちゃいましたが……

……

はやく行きなさい。

分かりました……ではまた後ほど、主教様。

……
(ヨリーが部屋から立ち去る)
老人は門を閉じた。
そしてゆっくりと祈祷台へ上がった。
年老いたこのアンブロジウス修道院の主教、ステファノ・トッレグロッサは、聖餐に用いる種無しパンとブドウ酒を細かく人数分に分け始める。
夜が明けてまだ間もなく、とても曖昧な朝日が聖像の後ろにある窓から差し込み、聖像の表情に黒い影を落とす。老人も顔を低くしているせいで、表情が見えない。

みんな……きっと助かるさ。
荒廃とした聖堂に、女がやってきた。辛うじて原形と留めていた植物の根茎が、彼女の足元で灰と化してしまった。
天井の自重を支えるアーチ状の構造物も大火災の中で崩落し、聖堂は外界の光に晒されている。
鼻を刺激する焦げ臭いにおいであれば、とっくに風が連れ去っていった。だが今、目に映るのは建物の残骸だけで、しばらくは誰かが整理しにやって来ることはないだろう。
再建を計らない限り、この大火災の焼け跡は永遠に消えることはないはずだ。
やがて女は、身体半分となり床に倒れた聖像を一瞥した後、ふと顔を振り向き、背後にあるがらんと広がった空間を見つめた。

……

盛り上がりが最高潮を迎え、抑揚が交差し、時に激しく、時に余韻を残し、音が飛び交うソナタのように、人はいつだって藻掻きながら自らを問い、納得させる生物だ。

決心したその瞬間は、ソナタに例えるとゆったりとしたコーダに突入するようなもの。脱力した際の虚無感を覚える一方で、強い決別も感じられる。

感情というのは複雑なものだね。けれどそれらの変化はどれも似通っていて、旋律も驚きを覚えないほど整い過ぎている。

……あなたの落ち着いた気持ちが伝わってくるよ、やっと決心がついたようじゃないか。

なら、あなたのために一曲演奏してあげないとね。最後くらいは、自分の心にある声を聞かなくちゃ。

多感で、しかして迷える魂よ。

ここには壺、それにまな板まで置いてあるのか……加熱した痕跡も残っているが、発酵時の匂いは確認できないっと……いや、種無しパンだから発酵することはないか。

どうやらここが聖餐の支度をする場所みたいだな。

ここに何かの破片が散ってる、判別はまだつかないが……触ってみた感じ湿っているな、地下だからか……?

いや、違うな。

テーブルの角には小麦粉が付着してる……が、なんで小麦粉もこんな粘っこいんだ……?

ん?この匂いは……

……

……最後まで努力した結果がこれだっていうのか?あの敬虔な主教様は……

フェデリコのほうは……通信が繋がらないな。じゃあ直接オレンに伝えるか?いや、それだと余計面倒になるだけだ。

はは、まさかな。この俺が直々に片付けろだって?イベリアのことなんざ、俺はそこまで細かくは把握しちゃいないぞ?

はぁ、こいつは参ったぜ……

もうそろそろ特殊部隊が修道院の周りに集まる頃合いだな……

そん時になったら俺が出入口を封鎖するようあいつらを指揮するから、お前はこっちの突入に合わせて中で対応してやってくれや。

……

どうした?

本当に、やるの?

なんだお前、レミュアンの話を聞いて寝返ったのか?これ以上の説明はいらないと思うけどな、時間の無駄だぜ。

それなら私が直々にあなたを止めるまでよ、オレン。
(レミュアンが近寄ってくる)

先輩!?

チッ、結局追いつかれちまったか。

おいスプリア、俺は外で部隊を迎えに行く。お前はあいつを止めるんだ。

いやだね。先輩のあのおっかない顔が見えてないわけ?あの人、怒るとちょ~~~怖いんだから。

昔なんか私を学校の小部屋から引きずり出して、発明したてのドローンも没収されたことがあったからね。しかもまだ返してもらってないし。先輩に歯向かうとか死んでもイヤ。

味方してくれて感謝するわ、リアちゃん。

……

さてオレン、あなた、この修道院をラテラーノへ連れて帰るよう、最初から主教を説得するつもりはなかったわね?

それはお前の仕事だからな。

ここにいるサルカズたちは一人たりとも逃さない、そのためなら独断で特殊部隊だって動かしてやる。それがあなたの最初からの計画だったってわけ……

部隊つっても十人編成のやつを五つだけな……それが俺の限界だ。

あなた、ラテラーノの法をなんと心得ているのかしら?

処罰なら、帰ったら直々に聖下にお伺いを立てるさ……もっとも、自分が処罰されるようなことをしたとは微塵も思っちゃいないがね。

ラテラーノの軍が修道院に足を踏み入れるのはどういうことを意味するのか、あなたも分かっているはずよ。

サンクタだろうとサルカズだろうと、俗世を離れたあの人たちはいわば荒野に迷う旅人。この荒廃とした修道院は、彼らにとって最後の篝火なの。

篝火は助けにやってきた身なりの整った同胞を呼び寄せてくれるけど、それは同時にここへ流れ着いたほかの絶望した旅人も引き寄せる。

身寄りも頼りもなければ、ひどく脆弱で怯え震えているけれど、それでも彼らは尊い善良な心を持っている人たちよ。

だからジェラルドも死をもって私たちに懇願してきた……彼が率いていたサルカズたちにも、双方と和平を維持するようにってね。

けど、ケダモノがその篝火に引き寄せてしまったらどうなると思う?

……

俺もできればお前みたいに、きれい事が話せて、人に好かれるような仕事につきたかったもんぜ、レミュアン枢機卿補佐官よォ。

でも仕方ねえ話だよな。だってお前、数えきれない難民と戦乱に荒れ果てた荒野を越えることも、ロンディニウムの外で空を覆うドス黒い雲を知らねえんだから。

ぶっちゃけ、お前となら多少は気が合うと思っていたんだな。少なくとも、あのサルカズたちを逃したらどれだけの結末を招くのかぐらいは予想できたと思ってたぜ。

ヴィクトリアの一件で、今じゃみんなサルカズに同じ認識を抱いちまってるよ。連中がふりまいた恐怖がますます各国に広まっちまってるんだぜ?

もしお前が本気でレガトゥスには存在価値があると、聖下の計画を信じているのなら、なおさらラテラーノがなんで連中に容赦しないことくらい理解してるはずだ。

サミットを終えた後にラテラーノが各国と築き上げた友好関係はな、この通路の窓に貼られた障子よりも脆いもんなんだぜ?

修道院にいるサルカズたちの心は憎悪でいっぱいだ、おまけにアルトリアのアーツの影響も受けてる。もしここで逃がせば、色んな手段を講じて復讐しに来るだろうよ。

それに、ラテラーノの修道院がよもやサルカズとこうも長い間結託したいたっていう事実が外に漏れ出しちまった暁にゃ……

ラテラーノはどうやってテラ各国に自身の清廉潔白を証明して、居場所を確保すりゃいいんだ?どうやって、もとからガタガタの外交関係を維持すりゃいいんだ?

そうなりゃ聖都は戦争突入まっしぐらだぜ。戦火で荒れ果てたラテラーノはどうなると思う?

そんな危ない芽を、この五つの十人編成部隊がすべて片付けてくれるんだ。修道院内で起こるどんな事件だろうと、あいつらだけで鎮圧してくれる。

……

ここにいるサルカズたちは、みんなただ狩りと農業を営むハンターと農民でしかない……唯一の傭兵も、すでに私たちの目の前で死を遂げたわ。

きっと虐殺に様変わりでしょうね、鎮圧なんかじゃなく。

この先のラテラーノの清廉潔白を守ろうとする前に、あなたはそれを汚してしまったようなものよ。自分の行いがおかしいとは思わないわけ?

おかしいのはお前のほうだぜ、レミュアン。

俺が知ってる「黙殺のレミュアン」は本来、こういう事件だろうとなんの躊躇なく片してきたはずだ。

病院で五年も眠っていた間に性格が変わっちまったのか。それとも……

あの「殉道者」の野郎に影響されち――
オレンは結局、その名前を口にすることはできなかった。
車椅子は目の前まで詰め寄り、銃身が強く彼の腰に宛がわれる。壁に寄りかかっていたため倒れることもなく、歯を食いしばっていたから、彼は痛みで呻き声を上げることもなかったが。

ツッ――

続けたら?

……

……出た、「黙殺のレミュアン」だ。

……だから怒らせたらヤバイって言ったじゃん。

第二分隊はすでに目標地点まで到達、爆発物も設置済みです。

アンブロジウス修道院の見取り図を見る限りですと、すでに利用可能な逃亡ルートを三か所は制圧しました。

中にいる連中が仮に強行突破を図って外へ逃げ出そうとするも、道を直接爆破、崩落させて、逃げられないようにすることもできますが……

そのまま瓦礫の下敷きになるだろうな。第二分隊のヤツらがニヤニヤしながら言っていたぞ、定点爆破は面倒だし、やる必要もないと。

……

報告を続けろ。

あっ、はい。第三、第四分隊もすでに配置が完了していて、高所を占拠しています。これで修道院の各所を狙撃で狙えるようになったとのこと。

準備はすべて整いました。

よろしい、部隊配置の時間もぴったりだったな。
(無線音)

では、オレン様に報告を入れるとしよう。えー、修道院内のサルカズを排除する準備は完了しました、いつでも行動できます。

いつでも行動できます。

……

どうしました?

返事が来ない。

……まずいことになりましたね。

いいや、心配するな。超でかいクレープを平らげてる真っ最中なんだろう、それで返事をする余裕がないだけだ。

そういうのって……よくあるんですか?

まあな。だから何も心配することはない、ラテラーノがお前を守ってくれるさ。今回はお前の初めての特殊任務なんだし。

無論だが、用意も怠ることなかれだ。もしこのままオレン様と連絡が取れなかった場合、あるいは異常事態が発生した場合は、正門から直接突入するぞ。

……よし、廊下には誰もいない。ほら、こっちに行くぞ。

ここって修道院の外に通じてる道よね?一緒にジェラルドさんを探しに行くんじゃなかったの?

いいや、お前を安全な場所に連れて行くことが先だ。あのラテラーノ人たちは無理やりこの修道院を奪おうとしていたんだぞ、聞こえてなかったのか?

軍はスプリアって女みたいに、見張りだけだったり慰めてくれるような「優しい」方法を取っちゃくれねえぞ?

それにお前は堕天したばっかなんだ、なおのことラテラーノの軍に姿を見せちゃいけねえ。あいつからしたら、今のお前は……

いいの、レイモンド。続けて、私聞いてるから。

フィーヌの時みたいに……私に話の腰を折らせないでしょうだい。

違うんだ、フォルトゥーナ。俺が言いてえのは、俺からしたらお前はなんも変わっちゃいねえってことさ。

……

とにかく、今のお前は俺たちサルカズと同じだ。修道院に残ってもほかのやつらに迷惑をかけちまうことになっちまったってことだよ……

……そうだね。

分かった、あなたに従うよ。

でもレイモンド、あなたはどうするの?そっちは平気なの?

安心しな、ジェラルドさんがとっくに段取りを決めてくれてらァ。俺たちがさっき聞いたことも、きっとすでに想定済みのはずだぜ。

ジェラルドさんのことなら当然加勢しに行くさ、だがそれもお前を安全な場所に置いてからだ。

……

手汗、すごいよ?それに顔色も悪いし、大丈夫?

気にするな。たださっきから、よく分かんねえけど、なんだか重りを乗っけられたような圧を感じる……

ちょっと急いで走り過ぎたのかもな。朝ロクに食べてねえんだし、ただの動悸だろう。

こんなことが起こらなかったら、今ごろジェラルドさんやみんなと一緒に聖餐をもらえていたはずだったのによ……

そんなの、こらからもきっと続けられるよ。

とりあえず深呼吸でもしなさい、レイモンド。こっからは私が先頭を走ってあげるから。

こっち!ここの部屋どれも空いてるから、見つかることはないはずだよ。

俺はもう平気だ、代役サンキュー。もうすぐ入口の門のところだぜ。

門を開けたら、すぐ右の草木が生い茂ってる岩だからけの場所に逃げるぞ、隠れてやり過ぎせるかもしれねえ。門を開ける時の音がデカすぎて、ラテラーノ人たちにバレる可能性があるからな。

よし、準備はいいか?かんぬきを引っこ抜くぜ。

……

こ、これって……

チッ、さっきの予感はラテラーノの軍のせいだったからか……クソ……

俺の後ろに隠れてろ、フォルトゥーナ。

……第一分隊、正門でサルカズを発見した。排除する。