私たちは、すべからく暮らしに憧れを抱いているものだ。
言葉にしてみれば奇妙なものだが、当然だとは思わないかい?
もし暮らしに僅かな期待すら抱かなかったのなら、私たちはなぜ命を授かり、この世に生まれ落ちてくるのだろうか?ただ苦しむために生まれてきたわけではないだろう?
そんな奇妙な疑問、子供たちなら考えることもしないさ。
なんとも気楽なひと時だったのだろうか、幼少期というのは。そのひと時から脱した人でしか、あの頃の良さを知ることはできない。
これは少年期、青年期にも言える話だ。あの頃はたくさんの悩みを抱えていたように思えて、振り返ってみれば、実はどれも取るに足らないような小さなものだった。
あの頃、私たちは尽きぬほどの活気に溢れていて、何かを成し遂げようと、暮らしは必ず良くなっていくとばかり考えていた。
とてもまじめに、努力して生きながら。
だというのに、本当に変な話だ。それなら何事も良くなっていくべきなんじゃないのかい?
いつから始まったことか。どうやら私はもうすでに、未来に憧れを抱く気力を失ってしまったようだ。
私を受け入れてくれる空間は狭まるばかりで、息抜きできる空気も次第に薄れていく。暮らしは果てが見えてしまうほど、もはや希望が見えなくなってしまったほど……重く圧し掛かってくるものになってしまった。
まるで山から転がり落ちてくる岩のように。
岩が止まることなく、ひたすら転がり落ちていくだけのことは、誰にだって分かることだ。
粉々に砕け散ってしまうまで。
花が……すべて無くなってしまった。
これ以上奥へ進まないでください。
この建物は度重なる破損を経ているため、構造が極めて不安定に……
(建物が崩れ始める)
うッ……!
戻ってきてください、クレマン。
違うんだ、フェデリコさん……私はただ……もう少し探したいだけなんだ。
あなた自身も言ったはずです、ここにはあなたが求めている花はないと。
そうだね、だから確かめたいんだ……花たちがすべて死んでしまったことを。一一輪も……一輪も……助からなかったことを。
(クレマンが残骸をどける)
くッ……はぁ……はぁ……
……
あなたの行動は理解できません。
なぜ……
私がこの手で植えた花たちは……友情と希望を象徴する花たちだった。
けどみんなはとっくにそんなことを、花が咲く時期すらも気にしなくなった。一番忘れちゃならないことを忘れてしまったんだ。
笑えるだろ?レイモンドがサルカズだから、それだけで彼を疑う人が現れたんだよ?
ずっと一緒に暮らしてきたというのにね。困難な時であればあるほど、互いに支え合うべきだって……主教様の教えがあるんだけど、私はずっとそう信じたかった……信じるべきだったのに。
けど事実が容赦なく私の目の前にかざされれば、振り向くことなんてできないじゃないか。
どうしていつまでも隔たりは存在するんだろう?人と人は、互いを分かり合えない定めにあるのだろうか?
ほんのちょっぴりの混乱さえあれば、上っ面だけの秩序は崩壊することができる。そしていざ混乱に陥れば、人々が互いを傷つけ合ってしまう……
そんなのはもうこりごりだ……もう我慢の限界だよ。
クレマンはふらふらと、大火事で焼かれてしまった聖像へ近づいた。
そこには二度も幸運に生き残った花が残されているわけもなく、ただ古びた木の皿が置かれており、中には干乾びてしまった数切れのパンが入っていた。
すると彼は、その少々怪しい味のするパンを口の中に放り込んで咀嚼し始める。
少ししょっぱくて生臭く、潮のような苦さを帯びた味だった。
ゲホッ、ゲホゲホッ!ま、まずい……
その手に持っているものを放しなさい、クレマン。
放すって?それはできないよ……
ゲホッ……
昨日の夜、懺悔でもしに行こうと思っていたんだ。けどまさか、主教様の計画を盗み聞きすることになるとはね……
本当だったらジェラルドたちは、少なくとも巻き込まれることもなく、ここから出ていけたはずだ。そうなんだろう?
なのに、どうして……あんなことになってしまったんだ?
……
このパンなら、しっかり最後まで私が頂くとするよ。
今のあなたは、延命しようとするつもりがありません。なのになぜ、未だに異形化を試みているのですか?
ただ、答えがほしかっただけだよ。
知りたいんだ……この世には本当に、私たちを救ってくれる存在はいるのかどうか。
今すぐ目の前にいるこの人物を止めなければ。フェデリコはそのことをよく理解している。
だが実際、彼はその場に立ち尽くすだけで動くことはなかった。
そこから少し外れたところで、アルトリアが彼女の楽器を奏で始め、音色が静寂の帷幕を引き裂く。そのうちにある感情をフェデリコは理解していないし、理解しようともしない。
ただこれまで初めて、この執行人は自身を抑えつけられなかった。
彼は自分自身が分からなくなってきたのだ。
なぜ?
なぜ私は、対象を目にしたその瞬間に手を下さなかった?
なぜこの痩せこけた男が、人をバケモノに変えてしまうものを口にしても、何も起こらないのか?
楽曲が一段と音を引き立ててきた。
弥漫する音符の間に挟まれた沈黙は、ある種の嘲りにすら思えてくる。
ゲホッ、ゲホッゲホッ……
あぁ……これは、血?
なんだ、こんなものなのか?ただ、ゲホッ、この程度のものなのか……
]呼吸がはやまっています。先ほど受けた衝撃で呼吸器官と肺が出血してる可能性があります、相応の措置をしなければ窒息してしまうかもしれません。
あなたは直ちに治療する必要があります。がその前に、私が応急手当を致しましょう。
必要、ゲホッゲホッ、ない……
クレマンは口に手を当て、なるべく咳する声を抑え付けようとする。
だが血はそれでもすぐさま掌から溢れ出て、不快な粘り気を帯びながら、指の隙間から滴り落ちる。
やがて彼はよろよろと一歩退りながら、破損した聖像の前に倒れ込んだ。
彼に焼かれた聖像は、まるでこの気力を失ってしまった犯人を受け入れるかのごとく、折れてしまった腕は両側に落ちており、優しく抱擁しているかのように見える。
クレマンのほうも、奇妙な温もりを感じていた。
は……はは……
やっぱり、なんてことないじゃないか……
結局これもウソだったわけか。主教様も騙されちゃっていたね、神様なんてものは最初から存在しちゃいなかったんだ……
ゲホッ……
あなたが先ほど食べたのは、海から産出された何らかの残骸。身体構造の面から、極めて高い確率で異変を引き起こすものではありますが、あなたが口にした神とはなんの関係性もありません。
はは……笑えるねぇ……
今のあなたは、非常にまずい状態にあります。
目下の速さで悪化が継続すればショック状態に陥り、死亡するリスクも大きくなっていきます。
そうなのかい?それは……悪くないね……
……
……もし何か遺言があれば、こちらは遺言執行人としてその嘱託を遂行して差し上げますが、如何いたしましょう?
遺言かい……?
……いいや……
何も、言い残すことはないさ……
ラテラーノ人……私たちの楽園は偽りだったよ。だったら君たちの信じるものも、偽りなんだろうね。
友情も、信頼も、期待も、未来も……何もかもなくなった。誰も真に救われることはない……
誰も……救済されることはないさ……
これは一種の選択なのだろうか?一種の良い結末なのだろうか?
執行人はただその場に立ち尽くし、近づくことはしなかった。
何はともあれ、これでいかなる苦しみも次第に遠ざかっていくことだろう。
疲弊しきったガーデナーの男は、ようやく静かに目を閉じた。
余韻がまだ漂っているね。感じるよ……指先を震わせる最後の音色と、皮膚を突き破ってしまうほど鋭利なフェルマータが。
けどその旋律も最初の頃は、清流みたいに穏やかなものだったよ。
元来平凡だった人が、救済者は存在しないという――事実を、己の命で証明してくれた。彼の強い精神力が、変化し続ける肉体に打ち勝ったんだ。
なんて美しい音色なんだろう……これこそが人間の強靭かつ自由なる精神と、あの哀れな海洋生物との違いってやつなんだね。
彼の物語ならこの先、この楽曲がきっと世に広めてくれることだろう。
やがて世の人々は彼の感情を知り、彼の意志を褒め称え、彼の勇気を賛美する。
そしてクレマン・デュボワは、世の人々に銘記されることになるだろうね。
そう思わないかい?フェデリコ。
てっきりここにしばらく留まるのかと思っていたよ。なんせその死者にはとても気にしていたようだからね……私の捕縛よりも優先的だと言っていたことだし。
もしかして憐れむことを覚えたのかな、フェデリコ?それとも、相変わらず他人の喜怒哀楽が分からず、他者とは相容れないままだとか?
指名手配犯アルトリア、あなたのアーツによって、また一人死亡者が発生してしまいました。このまま最大の脅威を私の射程範囲内から逃すわけもありません。
ラテラーノの法に則り、あなたはまた刑期を重ねることとなりました。
死を求めたのは彼個人の意志だよ。私の演奏がなかったとしても、彼はきっと同じ道を辿ったはずだ。
何度も何度も、私はただそういった哀れな者たちの傷を示してやっただけなのに、周りの人たちはそっぽを向くばかり。
あなたもそんな周りの人たちと同じように、彼の経歴に心を痛んでしまったのかい?
……
フェデリコ、あなたはもしかして、今も押し込められた衝動というものを理解できていないのかな?あえていばらの道を選んだ、あの主教様のこととか……
……そんな彼らの感情を思わず奏でてやりたくなってしまう、私のこととか。
確かに、理解はできません。
しかし理解できるか否か、それが法の執行とは無関係です。
私はクレマンに相応の処置を下すべく、この聖堂へ向かいました。
なのに彼は……死を遂げるほどの罪は犯していません。
へぇ?
自死を望む者を、あえて救おうとしたってわけだね?
もしかして気付いていないのかい?その考え、ロジックが破綻してるよ?
クレマンは、そのものが完璧に見えていたとしても、傷が生じれば二度と元通りにすることはできないと仰っていました。
……その言葉の正確性なら、私が検証します。
どうやら少しは面白くなったようじゃないか、フェデリコ……ほんのちょっぴりだけど。もし次会えたら、あなたの感情も奏でてやれるかもしれないね……
だが今回の旅は、そろそろ終わりといったところかな。残念だよ。
アルトリア殿……で、お間違いはないかな?
いかにも。待っていたよ。
誠に申し訳ない。こちらが招いたにも関わらず、お迎えに遅れてしまった。ここは実に、探すのに苦労する場所でね。
……ふむ、来る頃合いではなかったかな?
(リケーレとオレンが駆け寄ってくる)
フェデリコ!
おいおい……こいつァ、目にしただけでも三日は頭を悩まされる光景だな。
おいフェデリコ、なんでお前アルトリアと対峙してんだ?
御機嫌よう、ラテラーノの諸君。
ご機嫌よう……ご婦人。
(ヒソヒソ)あの女……選帝侯の紋章を付けてやがるぞ!
もうこれ以上そいつに手を出すことは許されねえぜ、フェデリコ。ラテラーノとリターニアの関係が響いちまったらシャレにならねえ……
……その提言は拒否します。
話はついたかな?
それならフェデリコ、よかったら一回だけチャンスをやろうか?
もし私に銃を向けるのなら、狙うべきなのはここだよ……
黒髪の女が執行人の銃を握りしめる手を持ち上げる。
そして自身の額に銃口を突きつけた。
あとは引き金さえ引けば、銃の弾丸は私の頭蓋を貫いてくれるさ。そしたら、私であなたが苦悩することはもうなくなる……フェデリコは、そうあってほしいかい?
なら、ここで試しみたらどうかな?
……
私がすべきことは、指名手配犯を逮捕することです。必要な状況でない限り、一般的に銃殺は推奨されていません。
……が、あなたの言うことは理に適っています。
(フェデリコが銃弾を放つもアルトリアがアーツで防ぐ)
マジでやりやがったぞこいつ!?おい、国際問題に発展するつっただろ!
待てオレン、そこまでひどいことにはなっていないようだぞ……
彼女なら平気です。あなたのこの女に対する理解度はまだまだなようで。
ふふ、そう。これはちょっとしたゲームさ。
アルトリア殿、これは……なんらかのアーツを応用した能力か何かか?
だとしても、先ほどの行為は危なっかしすぎるぞ。
お気遣いどうも。次は気を付けるよ。
それじゃあフェデリコ、一つ手掛かりとして、あなたのために残しておいてあげよう。
演奏はまだ終わっていない、それはあなただけが聞こえてないだけだ。
誰も、一番のクライマックスを除いたパートしか耳に届いてはいない。
……
さて、余韻も収まったことだし、私もそろそろ出発するよ。
ではラテラーノの諸君、また会おうね。
お先に失礼させもらう。
(アルトリアと使者がその場を立ち去る)
……
おい、このままぼーっと突っ立って逃すつもりか?
ったく、てっきり俺とリケーレの二人がかりでお前を止めに入らなきゃならないと思っていたのに。
うるさいですよ。
(フェデリコが立ち去る)
は?っておい、どこに行くんだよ!
鐘楼の囲いに向かったみたいだな。あっちは確か……墓地だったか?
って、もういいだろう、そんな睨んでやらんでも。何事も起こらなかったんだ。それよりまだやらなきゃならねえことが残ってるだろ?
フェデリコおにいちゃん?
アルトリアおねえちゃん、どこ……?
どこにもいないね……
だいじょうぶ、ほかのところも探してみよっ!
あれ、なんでこんなところにおじさんが座ってるの?
シーッ、このおじさんねてるんだよ。起こしちゃダメ……
確かに!
あっ、でもこのおじさん知ってる。きれいな花をうえてくれる人だ。ほら、ママがよく家に持ってかえって、花びんに入れてるアレの!
うん……
何してるの?それママがぼくたちにくれたやつでしょ?
でも、おじさんここでねちゃってたら、かぜ引いちゃうよ……
いい子なら、ちゃんと人にか、カンシャしなさいって、ママ言ってたから。
感謝、だね。
わかった、じゃあしばらくおじさんにかしてあげよう!
うん!おじさんが起きたあとも、いろんなキレイなお花をたくさんうえてくれるといいなぁ……
きっとうえてくれるよ!きっと!