二十六年前
1072年
5:11p.m. 天気/曇り
ロンディニウム、オークタリッグ区、カンバーランド公爵邸

陛下……先ほど届いた情報によれば、例の二人の議員が獄死したそうです。

フンッ、ヤツらに相応しい最期じゃないか。我々もそろそろ議会に分からせてやるべきだろう。ヤツらが仕えるべきなのはヴィクトリアであり、断じて金貨をポケットに詰め込もうとする商人どもではないのだと。

気を急がれているのは理解しております。しかし陛下が司法機関に圧力をかけ、動向を探っている議員たちを怯ませてしまっては、却って議員たちに手を滑らせてしまうという懸念の声もございます。

ハッ、そのまま怯んでいるがいいさ!それで立場を弁えてやれるのならなおのことではないか!

こうも戦争が続いてしまえば我々の先祖が培ってきた財を浪費するだけだ、そんな状況だというのにあのハゲタカどもは私腹ばかりを肥やしよって……!

何も譲歩とまで言いませんが、ただ陛下にはもう少しゆっくりと……

ゆっくりとだと!あのハゲタカどもは一度だって遠慮したことがあったか!なぜヤツらが食い物を奪い合っている際に“もっとゆっくり”と言ってやらないのだ!

このまま新しい税制を敷かなければ、いざ敵がヴィクトリアに押し寄せた場合、傭兵とて我々のもとから去っていってしまうぞ!

志と誠実さを持った者たちであれば、必ずや陛下のもとに残って頂けますとも。

フッ、紅きドラコもそう思っていただろうさ。王冠を差し出すハメになる前にな!

彼の結末を知らぬ我らではないはずだ。

ご安心くだされ。このチェンバレンめの赤心、いつ何時でも陛下のお傍にあられます。

無論だ、“高潔なるチェンバレン”よ――私が君を疑うはずもないではないか?

しかしだロバート、ヴィクトリアはすでに火急の危機に瀕している。王の権威は刻一刻とこの地から消え去ろうとしているのだ。

なぜそのようなお考えに至るのですか?

明後日には陛下の生誕日になります、みな陛下のお姿を一目見ようと待ち望んでおられますよ。軍は陛下に礼を敬し、臣民たちの歓声もきっと式典会場を埋め尽くさんばかりでしょう。

今年はそうかもしれんが、来年はどうだ?私のアレクサンドリナが即位した際はどうなんだ?

我々はいずれこの世を去るのだ、ロバート、遅かれ早かれ必ずな。

何を仰いますか陛下――

陛下、閣下。

お話し中に失礼致します、ご報告したいことが――

宮殿の地下に何者かが侵入し、諸王の息吹が盗まれてしまいました。

……なんだと?

加えて……アレクサンドリナ王女殿下も、行方不明に……

衛兵たちがすでに関連する区域を閉鎖し、捜索しております。ただ、未だ消息は掴めておらず……

こんなデリケートな情勢下の中で、王女殿下と宝剣が同じタイミングで消えただと?

貴族たちがこんな時にしゃしゃり出るとも思えん、いやしかし……

ご安心くださいませ陛下、私がこの一件を担いましょう。今すぐに……

慌てるでない、我が友カンバーランド。アレクサンドリナにはあの子の師がついている、あの子を脅かせる輩など居もしないさ。

師、ですか?それは例の……

あの子は彼のお気に入りだ、私よりもあの子へ関心を寄せているのを見れば分からなくもないさ。

諸王の息吹のことなら、どこにいようがきっとその本分を尽くしてくれるさ。

それはつまり……宝剣としての本分、という意味ですかな?

フッ、徳を持つ君主が手に持ってこその宝剣だ、当然だろ。あの学者たちの研究材料にされる前まではな。

共にその日がやってくるのを待ち続けようではないか。

……

陛下がそうおっしゃるのであれば。

はっ、これも陛下のため……ヴィクトリアのためにございますな。

お持ちくださいお嬢様、走っては転んでしまいますよ――

イヤよ、はやくお父様のところに行かなくちゃいけないわ!

今日お屋敷に戻られていたのは知っているのよ。はやく急がなきゃ、いつまたどこかへ飛んでいかれるか分からないもの!

公爵様は近頃ご多忙でいらっしゃいますが、もしお嬢様が会いたいとお耳に挟まれたら、きっと付きっ切りでお相手してくれるはずです。そう急がれなくとも。

会いたいわけじゃないわよ!

ではなぜそんなに急がれているのです……?

伝え……伝えたいの、ヨークには行きたくないって。

田舎へ行かれるのはお嫌いでしたか?しかしそこの荘園はこのお屋敷よりも格段に広くて、お嬢様も昔はそこの草地を気に入っていたではありませんか。いつも小作人の子供らと一緒にクリケットを遊ばれて。

場所は好きよ、場所は!

でもまだ夏になってないじゃないの!いつもならロンディニウムにいなきゃならないわ。それに、今回はわたしとお母様だけがそこへ向かうことになってるのよ、変だとは思わないの?

とは言えまずは落ち着いてくださいな。マンチェスター伯の執事から聞きましたよ、今年はたくさんの貴族家のお坊ちゃまやお嬢様がいらっしゃるそうです。社交界で新しく流行っているんでしょうかね?

そんなんじゃないわよ。

いいかしらエルシー?お父様はきっとわたしを避けているのよ。いつも剣の稽古をねだってばかり、おまけにガリア語を勉強してもロクに習得できないから、わたしを追い出そうとしているんだわ。

今この場でお伝えしていいかどうかは分かりませんが……

別に好きに話したらいいじゃないの、ここにマナー講師がいるわけでもないんだし。

……では。ただ、これはあくまで私個人の観点での話になります。

お嬢様、公爵様ならお嬢様のことをとても愛しておられます。ああいう決断をしたのも、すべてはあなたと夫人のためなのですよ。

だったらなおさらわたしを追い出さないでもらいたいわね。

でも……わたしもお父様のことは愛しているわ。すごく、すごくね。

うふふ……どうされたのですか、そんな恥ずかしそうにして?

こんなこと、子供でしか言わないからよ!

わたしだって、いつまでも頼りない娘だって思われたくない。わたしももっと強くならなくちゃ、いつかわたしもひいひいひいひいお婆様みたいに騎士になって――

お嬢様ならまだまだ子供ではありませんか。

ともかく、今は心の内を公爵様に打ち明けられては如何です?温厚で寛大な公爵である前に、理解を示してくれるいい父親です。きっとお嬢様の思いも理解してくれるはずですよ。

じゃあ、お父様のところに行ってもいいの?

ええ、私はいつまでもお嬢様の味方ですから。

ただ何度も言ってるように、足元には注意くださいませ。草花に足を取られて転んでしまわれたら、庭師のジムが悔やんでも悔やみきれなくなります。

だったらジムに伝えてちょうだいな!草花でこのわたしを転ばせることができたのなら、それは彼なりの実力なんだって!

もう、仕方ないですね。

でしたらせめてお召し物を汚さないように気を付けてくださいませ、アラディお嬢様……夜のパーティには陛下もお見えになられるのですよ!

して、あのチャールズ・リッチにはもう会われたかな?

新しく蒸気騎士に叙された彼ですわね……あの歳からすれば偉業ですことよ。今日ここに来られた方たちも、きっと彼がお目当てだったでしょうね。

だが、早々に去ってしまわれたことが何よりも残念だ。ロンディニウムに駐在していた蒸気騎士たちも全員、異動命令を受けたと聞いてるぞ。

……今回の相手はサルゴンでして?それともリターニア?

もういい加減戦争は勘弁願いますわね。戦争をするたびに、こちらは祖父が残してくれた絵画を売りに出すハメになっていましてよ。物価もこの頃天井知らずでもう大変のなんの。

今回の異動の命令は直接議会が出したものだ。

……議会が?

まあ、考えてみれば当然ですわね……蒸気騎士は元より議会に属しておりますもの。というか、相変わらずお耳が早いですこと。

素早く情報をキャッチしてこそ投資も上手くいくものだよ、特に今はね。もう損得を気にしてる場合でもないのだが。

この国がどうなるかは、すべて我々にかかっている。だからこそ、もっと有識者と関係を広げておかなければならないのさ。

例えば、リッチ少佐とか……

今はもうチャールズ騎士爵でしてよ。

……サー・チャールズは真面目でいい騎士だったよ。最後までヴィクトリアに忠誠を貫いてくれた。

北の辺境領に置かれてる高速戦艦に在籍してはや十年近く、立てた戦果は数知れず。おまけにあの若さで蒸気騎士として封ぜられたのだから、逸材とはああいう人を指してるんだろうね。

彼も以前はロンディニウムに住んでいたと聞きましたわ、確かオクトリーグでしたっけ?ご家族に関しては何も分かってはいないけど。

家族がどういう身分であれ、彼は紛れもなくヴィクトリアを支える支柱の一人だったさ。

今じゃ蒸気騎士は栄誉そのものだ、過去に陛下のお傍で媚びへつらっていた佞臣どもとは違うね。

何か物言いたげな口ぶりですわね?

いやいや、そんなことはないさ。ただまあ、サー・チャールズという珠玉を傍に置いたら、先祖が築いた栄誉に縋りついてる者たちは見ずぼらしく見えるのなんの――

……
(アラデルが貴族の男にぶつかる)

おっと……これこれ、どこのお嬢さんなのかね?パーティ会場内で走り回るもんじゃないよ。万が一陛下や公爵様とぶつかってしまえば掴まってしまうかもしれないからね?

この装い……それにこの髪色……ねえリチャード、この子は……

カンバーランド家は媚びへつらってなんかないわよ!

わたしたちだって蒸気の鎧をまとうのに相応しいんだから!陛下やヴィクトリアのために先陣を切って、命を捧げる覚悟ぐらい持っているわよ!

アラディお嬢様!

大変失礼致しました、リチャード様、マーサ様……お嬢様は少々お身体が不調気味でして、故意にぶつかったわけではありません。私の監督が行き届いておりませんでした、誠に申し訳ございません。

なんでエルシーが謝ってるのよ!?

わたしたちカンバーランド家の栄誉は、誰にだって汚させはしないわ!

わたしもわたしのご先祖みたいに、立派な蒸気騎士になってやる!

見ておきなさい……わたしが大人になったら、全員ぎゃふんと言わせてやるんだから!

お嬢様!

……

失礼するわ!
(アラデルが走り去る)

お嬢様、お待ちを!

申し訳ありませんリチャード様、マーサ様。お嬢様の後を追わなければいけないので、ここで失礼致します。
(エルシーが走り去る)

アラデルお嬢様は率直でいい子ですわね、あなたと違って。

ふふっ……夜のパーティでお目にかかれると思っていたのだが、こうもはやくお会いできたとは誠に僥倖だ。そう思わんかね、マーサ?

子供というのは誰だって純粋無垢なものだ。しかしだね……

大きくなるにつれ、色々と学ぶことも大切だよ。
息絶え絶えになりながらも、中々の距離を走り回った幼きアラディ。
本来なら父のもとへ訪れるべきであったのだが、意図せずしてこの小さな部屋へ潜り込んでしまった。ここはパーティ会場や公爵の書斎からも遠い、楼閣にほど近い場所である。
なぜ父は自分を追い出そうとするのか、なぜあの煌びやかな客人たちはあんな風にカンバーランド家を貶すのか。頭に血が昇ってしまっている今の彼女では、理解できるはずもない。
彼女はよくここに来て、古い友だちとお喋りに興じることがある。クリケットの試合に負けた際や、父が自分の誕生日パーティを欠席した時などといった日常における嫌なことがあれば、いつだってここに足を運ぶのだ。

あなたが最強の蒸気騎士のはずなのに!みーんな忘れちゃってる!

でもわたし、お父様から教わったわ。真に勇敢なる者は犠牲も忘れ去られることも恐れないって……だからわたしいいもん、あいつらとは言い争わないわ。

はやく大人になりたいなぁ……はやく栄光ある蒸気騎士になって、わたしたちの敵をやっつけてやる!

そしたら、カンバーランド家を悪く言ってくる人たち全員を見返してやるんだから!

でも、あなたには敵わないでしょうね。まあ、あなたの半分、いや三分の二ぐらいの実力があれば、わたしとしては満足かな。

むー、でもお父様言ってた。カンバーランド家たる者、高く目標を持つべしって!だったらそうね……

わたし頑張るからさ、励ましてくれないかしら?もちろん、あなたにだって負けないんだからね!
(何者かの足音)

(……誰か来た!?)

(エルシーかしら?)
パーティ会場には戻りたくない。そう思ってアラデルは腰を小さく曲げ、ひょっこりと見知った蒸気騎士の鎧の後ろへと隠れた。
そんな大きな甲冑は欠損していながらも、まるで幼子を守るかのように、すっぽりと小さなアラデルを覆い隠す。
そこへ徐々に徐々にと、知らぬ足音が近づいてくる。
視界はほとんど甲冑に遮られてしまっているため、アラデルは入ってきた人たちの顔をあまりよく見えていないが、辛うじて様変わりな影を覗き込むだけはできた。

時間が惜しい、それにせっかくのチャンスだ、今のうちに確認しておこう。

……本当にここは誰もいないのか?

滅多に人が寄ってこない場所だ、安心したまえ。ほかの賓客も全員あのパーティ会場に集まっている、誰も私たちが抜け出してきたことに気付いちゃいないさ。
しかし、そこには息を殺して甲冑の隙間から覗き込んでるアラデルがいた。
全員が全員、あの煌めき輝くホールで手持無沙汰に興じてるわけではないのだと、彼女はそう思った。

分からんな、なぜ今日動かないんだ?せっかく獅子が巣穴を離れた上に、衛兵も大して数はいないではないか。

ここで暗殺したところ、問題は解決せんよ。

表沙汰になって首を吊るハメになるのが怖いとは言わせんぞ、将校さん。

絞首刑なんぞ恐れてはいないさ、貧困を恐れるお前と違ってな。そんなものと比べればまだマシなほうさ。

だがこっちはもう他人に財布と首を握られてることにはうんざりなんだ。早いとこさっさとやってほしいものだがね。

親の獅子が死んだところで、まだ子供の獅子が残っている。その子供の獅子も殺さない限り、王冠がヤツらの頭からズレ落ちることはない。我々も首に縄を括りつけられたままだ。

王を殺せるのであれば、その次を処分することだって造作もないはずだろ。

簡単に言ってくれるな。だがともかく、今は我慢だ。

蒸気騎士たちもすでに異動されているんだ。ロンディニウムに戻ってきた頃には、すでに事も終えているだろうさ。

その際ヤツらはどう動くんだ?

一心にヴィクトリアのために忠義を尽くしてるあの方たちと一緒さ。我々の行動に理解を示さなくても、あの方々の決定には従ってくれるはずだ。

となれば、残りは王室の衛兵隊だけだな。

閲兵式に……

……塔の騎士たちを押さえつければ……だが肝心なのは都市防衛軍……

……一部の大公爵たちもすでに我慢の限界だ……
冷たい甲冑に顔を張りつかせているアラデルだが、彼女の額から冷や汗が止まることはない。
微動だにせずを保つのも限界に達してきた、加えて息も殺さなければないとなればこの幼い身体には負担も大きい。二人の影から伝わってくる声が次第に遠ざかっていってホッと一息つくも、なぜだか突如とまた近くへと寄ってきた。
それゆえにビクリと身震いしてしまったアラデルだが、なるべく自分の身体が鎧からはみ出さないようにと、つま先をピンと張り詰めてしまうぐらいに必死に隠れようとしている。

この鉄クズはいつもここに置かれているのか?

……これは初代蒸気騎士の甲冑だ。

初代の!?となれば二百年ものの宝物じゃないか!ふむ、きっといい値で売れるに違いない。

紋章が見えていないのか?これはカンバーランド家の蒸気鎧だぞ。

かつてこれを着こなした持ち主は、当時の君主と戦争に巻き込まれてしまった臣民たちを逃すために、三時間もガリア人たちの砲火に晒されては持ち堪えた。

戦場の跡地を整地しに戻ってきた際には、この甲冑は半分に吹き飛ばされてその場に放置されていた。中にいた人は、おそらく砲撃が始まって間もない頃にはすでにこと切れていただろう――

――死してもなお、この者は己の主君と臣民を守り抜いたのだ。膝をつき、敵に屈することもなく。

ガリアの血が流れている君が、私よりも貴族たちの武勇伝を好んで話すとは思わなかったよ。

……私はただ英雄と称するに相応しい者たちへ人として基本的な敬意を向けただけだ。

英雄の遺物はお前のそのいやらしい目つきを向けていいものではない。いつかこの公爵邸が灰になっても、カンバーランド家は決してこの甲冑だけ差し出さないだろうな。

フッ……しみったれた貴族の矜持ってやつかい?私からすれば無用の長物にしか見えんがね。

だがまあ、所詮カンバーランドもほかの大公爵と同じように、手をこまねいているだけさ。この国の統治者が誰であれ、大公爵の権威が脅かされることはそうそうないからね、今しばらくは。

彼が少しでも時勢を読める人間であれば、カンバーランドとは呼べんさ。

それにしても、なぜ彼は未だに獅子へ忠誠心を貫こうとしているのだ?いずれヴィクトリアは大きな変化と遂げる、早めに鞍替えしたほうが身のためだと言うのに。

下の階が騒がしいな、何かあったのか?

公爵邸が軍に囲まれた、中々の数だな。

静かにしろ、声がする。

宮殿の地下が……侵入され……

剣が……盗まれてしまい……

オクトリーグの主要な道路を封鎖しろ……一人も逃すな……

下での会話が聞こえたか?

人を探してるようだな。

誰を?

陛下の衛兵隊も全員出動したらしい。

まさか私たちがここにいることがバレてしまったんじゃ……おい、どうするんだ?
ふと、何者かが小さくため息をついたような、微かな音あるいは声がした。
鎧の後ろに隠れているアラデルの心臓も、ますますその鼓動を激しくしていく。